肥前 原城ひぜん はらじょう

城郭放浪記


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肥前 原城の写真
掲載写真数
形態
平山城(31m/30m)
別 名
有馬城,日暮城,志自岐原城,春の城
文化財指定
国指定史跡
遺 構
石垣,郭,堀
城 主
有馬氏
歴 史

明応5年(1496年)有馬貴純によって築かれたと云われる。 日野江城を居城とした有馬氏八代有馬貴純によって支城として築かれたのが始まりと云われる。

慶長4年(1599年)有馬晴信は日野江城よりも住みやすくより堅固な城を築いているとイエズス会宣教使の報告書に記されており、これが原城と考えられている。慶長9年(1604年)にはほぼ完成し、三層の櫓や家臣の屋敷、教会も建設された。

慶長19年(1614年)有馬直純のとき日向国延岡に五万三千石で転封となり、元和2年(1616年)松倉重政が大和国五條より四万三千石で日野江に入封した。 松倉重政は新たに島原城を築いたため、原城の石垣や建物を島原城へ移し、原城は元和の一国一城令によって廃城となった。

寛永14年(1637年)島原の乱が勃発し、一揆側の総大将として天草四郎が農民二万数千とともに籠城する。天草四郎は小西行長の家臣益田甚兵衛好次の子と云われる。 これに対して幕府は板倉重昌を派遣し九州の諸大名を率いて原城を包囲した。幕府の討伐軍は幾度となく原城に攻め寄せたが、籠城していた一揆軍は城を固く守ってこれを寄せ付けなかった。一揆を鎮圧出来ない幕府は老中松平信綱を派遣して事態の収拾を図ろうとしたが、この知らせに焦った板倉重昌は原城に総攻撃を命じ、突撃して討死してしまった。老中松平信綱は十数万もの軍勢で原城を包囲すると兵糧攻めを行い、兵糧が尽きたころに総攻撃を仕掛け原城は落城、大将天草四郎時貞も討ち取られた。

この一揆の責任を問われ島原藩主松倉勝家は改易ののちに斬首刑となり、大名として唯一切腹ではなく斬首という厳しい処分が科せられた。

説 明

原城は駒崎鼻と呼ばれる島原湾に突き出した高台に築かれている。 この高台の南端に本丸があり、北に二の丸・三ノ丸、西に鳩山出丸、天草丸などがあった。

本丸は石垣造りで南西側に櫓台があり、西へ張り出す形になっている。 大手虎口は北西側にあり、コの字に折れた通路を回り込んで入る構造で、東端には池尻口門と呼ばれる階段の付いた平入の虎口がある。

本丸から北へ続く車道を進むと二の丸の看板があり、その先のy字路を右へ降りると大手門跡がある。左を少し降りると「板倉内膳正重昌の碑」があり、この辺りが三ノ丸である。

案 内

国道251号線沿いに大きな看板が出ており、本丸のすぐ下に無料駐車場を完備している。原城の北西にある南有馬運動公園グラウンドの所に南島原市原城文化センター(地図)があり、原城、日野江城に関する展示がある。

最寄り駅(直線距離)
0.6km 原城駅
1.2km 浦田観音駅
2.3km 常光寺前駅
2.5km 有馬吉川駅
2.9km 北有馬駅
所在地/地図
長崎県南島原市南有馬町浦田名
付近の城(直線距離)
3.1km 肥前 小松崎城
3.4km 肥前 日野江城
5.9km 肥前 大浦城
6.4km 肥前 大垣城
7.0km 肥前 今城
9.0km 肥前 瀬詰崎台場
9.2km 肥前 大苑城
最終訪問日
2019年1月
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