築城年代は定かではないが文明17年(1485年)大葉沢城主鮎川氏によって築かれたと云われる。当初は大葉沢城の詰城として築かれたと云われる。
永禄元年(1558年)本庄城主本庄繁長は上杉謙信に降り、揚北衆として各地を転戦し武功を挙げた。しかし、永禄11年(1568年)本庄繁長は武田信玄に通じ、出羽国尾浦城主武藤義増とともに上杉氏に反旗を翻した。 上杉謙信はこの本庄氏に対する拠点として笹平城の大改修を命じ、上関城主三潴長能に在番させた。
笹平城は長津川の北岸に聳える標高238.8mの通称城山に築かれている。 米沢上杉家所蔵の「慶長二年越後国絵図」には「将軍嶺」と記されているらしい。
笹平城は城山山頂を要として西と南西に伸びる尾根に曲輪を配している。 南西に伸びる尾根には堀切で区画された曲輪が並び、こちらが主要曲輪群になっている。南端から西へ伸びる尾根には畝状阻塞がある。ここの畝状阻塞はざく切りの連続堀切のようになっている。
山頂から西へ伸びる尾根にも曲輪群があるが、こちらは堀切による遮断は少なく、曲輪自体の規模も小さめである。こちらの尾根にも登山道がちょうど西から北へ曲がる地点の西尾根に畝状阻塞が設けられている。ここの畝状阻塞は尾根と水平の竪堀から両側に垂直の竪堀あるいは堀切を設けたような形でやや複雑になっている。
いくつかある手持ちの縄張図には描かれていませんが、山頂から東へ続く尾根に堀切がいくつかあり、谷を隔てた東側にある尾根から更に東へ伸びる尾根にも堀切がありました。
県道208号線を走っていくと、きれいな鳥瞰図が描かれた看板がり、ここから更に走って瑞雲集落の「瑞落担手センター」(地図)まで来ると「笹平城山散策遊歩道」という案内板が設置されている。
問題は登山ルートですが、今回行きに選んだ一番右側のルートは途中から道ではなく尾根伝いにアプローチするようになる。真ん中のルートは未確認だが、鉄塔道の所で分かれて山頂から南西に伸びた尾根の先端から登るルートのようである。最後に一番左のルートだが、これが一番はっきりとした山道で迷わず城山に行く道であるが、登山道はこの看板のある所から、走ってきた県道を2km程戻った位置にある。「笹平集落開発センター」が目印でここから長津川に架かる木橋を渡りそのまままっすぐ歩けば登山口(地図)で、山頂まで1500mの看板が立っている。
最寄り駅(直線距離)