慶長10年(1605年)堀直寄によって築城がはじめられたが、完成したのは元和4年(1618年)で牧野忠成によるものである。
坂戸城主堀直寄は、蔵王堂城主鶴千代の後見人となって長岡城の築城をはじめたが、福島城主堀氏の家督相続に纏わる内紛で堀忠俊は改易となり、一族である堀直寄もその影響で信濃国飯山へ転封となった。
堀氏に代わって福島城に松平忠輝が入封すると家臣山田勝重が長岡城主となったが、元和2年(1616年)に忠輝もまた改易となる。再び堀直寄が入封するが、元和4年(1618年)直寄は越後国村上へ転封となった。
元和4年(1618年)越後国長峰より牧野忠成が入封し城を完成させた。 寛永11年(1634年)忠成の二男康成に一万石を分封して与板藩を立藩させ、以後代々牧野氏が続いた。
慶応4年(1868年)戊辰戦争が起こり、家老河井継之助はカトリング砲二門など大量の武器弾薬を購入して帰藩し、5月2日小千谷に陣を張った新政府軍の岩村精一郎と最後の談判が行われたが交渉は決裂し開戦となった。5月19日に長岡城は落城、その後一時長岡城を奪還したものの再び落城して、藩主は会津へ逃れた。
城は長岡駅付近にあって、西から東へ詰丸・本丸・二の丸を配し、その周囲に三の丸を配した輪郭式の平城であった。現在は市街地に完全に没して当時の遺構は何も残っていない。
長岡駅西口のロータリー脇に本丸の石碑が建っている。もう少し西にある厚生会館の所に二の丸の碑が建っていたらしいが、厚生会館は現在取り壊し中であった。また、悠久山公園に御三階櫓を模した郷土資料館が建っている。