築城年代は定かではないが戦国時代に古志長尾氏によって築かれたと云われる。 古志長尾氏は越後国守護となった上杉房顕に従って越後に入部した長尾景恒が祖で、その子長尾景春が蔵王堂城を居城としていたが、後に栖吉城を築いて居城を移した。
古志長尾氏は長尾景信の時に全盛となり、永録2年(1599年)上杉謙信が上洛して帰国したことを祝う「侍衆御太刀之次第」に一門筆頭として名が記されている。この上洛の際に謙信は河田長親を見出して古志長尾氏を継承させて栖吉城となり、景信は上杉を名乗った。
天正6年(1578年)上杉謙信没後に起こった御館の乱では、上杉景信は上杉三郎景虎方となり府中の戦いで討死、天正8年(1580年)栖吉城は上杉景勝に攻められ落城した。
普済寺の東背後に聳える標高365mの城山に築かれている。 普済寺の北方に平時の館があったといい、ここから通じる登山道が大手という。
城は東西の峰に築かれており、東峰は古城または姫城と呼ばれており、西峰との間は三重堀切によって区画され、古城の東尾根も二重堀切が残る。
西峰の本城部分は、南の畝状竪堀群を横目に三の丸へ入り、三の丸と二の丸は空堀に架かる土橋を渡って入る。本丸の周囲は空堀が巡り、北西側に虎口が開く。
登山道は入口は普済寺の先と栖吉神社の二ヶ所あるようです。 普済寺の先の登山道入口付近には駐車スペースがありました。栖吉神社へは行っていないのでわかりません。
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