正平元年(1346年)赤松貞範が姫山に築いたのが最初といわれる。 赤松氏の被官であった小寺氏の時代は姫山城といわれていた。 一時山名氏に奪われていた播磨は応仁の乱ののち再び赤松氏のものとなり小寺氏が城主となった。 織田信長の命により中国侵攻中の羽柴秀吉は播磨を平定後、三木城を本拠とする予定であったが黒田孝高の勧めもあり姫路城を本拠とする。 秀吉は三重の天守を築くなど大改修を行う。 現在の様式に改修したのは池田輝政で関ヶ原合戦後、播磨一国五十二万石で入封している。
・慶長5年(1600年)木下家定が備中国足守に転封。
・慶長5年(1600年)三河国吉田より池田輝政が五十二万石で入封、元和2年(1616年)光政の時、因幡国鳥取へ転封。
・元和3年(1617年)伊勢国桑名より本多忠政が十五万石で入封、寛永16年(1639年)政勝の時、大和国郡山へ転封。
・寛永16年(1639年)大和国郡山より(奥平)松平忠明が十八万石で入封、慶安元年(1648年)忠弘の時、出羽国山形へ転封。
・慶安元年(1648年)出羽国山形より(越前家)松平直基が十五万石で入封、慶安2年(1649年)直矩の時、越後国村上に転封。
・慶安2年(1649年)陸奥国白河より榊原忠次が十五万石で入封、寛文7年(1667年)政倫の時、越後国村上に転封。
・寛文7年(1667年)越後国村上より(越前家)松平直矩が十五万石で入封、天和2年(1682年)豊後国日田に転封。
・天和2年(1682年)陸奥国福島より本多忠国が十五万石で入封、宝永元年(1704年)忠孝の時、越後国村上に転封。
・宝永元年(1704年)越後国村上より榊原政邦が十五万石で入封、寛保元年(1741年)政永の時、越後国高田へ転封。
・寛保元年(1741年)陸奥国白河より松平明矩が十五万石で入封、寛延2年(1749年)朝矩の時、上野国前橋へ転封。
・寛延2年(1749年)上野国前橋より酒井忠恭が十五万石で入封、以後明治に至る。
天守をはじめ、門や土塀など現存遺構が非常に多く残された江戸時代の城。
南側に大きな有料駐車場がある。またレンタサイクルも用意されており、市街地に残る遺構をめぐるのには便利である。
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