貞和5年・正平4年(1349年)赤松貞範によって築かれたと云われる。 興国7年・正平元年(1346年)父則村が縄張し、貞範が築いた姫山城から僅か3年で居城を移し、姫山城には一族の小寺頼李を置いた。
応安3年・建徳元年(1370年)赤松貞範が没すると嫡男顕則が継いで篠丸城から移るが、僅か2年で没し、顕則の次男則貞が継いだ。その後、則貞は鉾山城へ移り、甥の赤松貞村が領し家臣八杉藤五郎が支配したという。
嘉吉の乱で赤松氏が没落すると、山名持豊の家臣原伊四郎が在城したが、文明元年(1469年)赤松政則が再興すると小寺康職が城主となり、祐職、福職と続くが、享禄2年(1529年)福職は塩田城へ移り、御着城より小寺政隆が入った。しかし、享禄3年(1530年)政隆は浦上村宗に攻められ討死する。政隆の子則職は翌年摂津の合戦で浦上村宗を討ち取り御着城へ戻ると、その家臣長浜長秋が城主となった。
永禄年間(1558年〜1570年)頃には三木城別所氏の一族別所重棟が城主となるが、天正8年(1580年)三木城が落城すると庄山城は黒田長興が領し、元和年間には小笠原忠真の支配となるが、明石へ移って廃城となったという。
城は庄から豊国にまたがる標高193.9mの通称城山の東側に築かれている。
主郭は東の峰にあり、南下にある帯曲輪へ降りる途中に僅かに石積が残っている。 主郭から東へ数段の削平地があり、北端を土塁状に残した曲輪を経て南東の峰まで曲輪が続く。
主郭から西へ行くと堀切を隔てて削平地が連なり西峰に達する。西峰の山頂の曲輪は西端に土塁が残り、ここから南へ向かう尾根に曲輪が連なる。南へ続く曲輪は西側がやや高くなっている部分が多く、土塁があったようである。
旧国道372号線から城山の東側にある城山中学校への入口の所に案内板があります。登山道があるようなのですが、わかりません。南西にある医王寺・大歳神社の裏から道が通じていますが、途中から踏み跡をロストしてしまい、自然林なので登るのに苦労しました。城山は全体的に自然林で尾根筋は道がありますがあまり良い道ではありません。東側の方がよく歩かれているようですので、城山中学校から谷外小学校付近から登山道がありそうです。
最寄り駅(直線距離)