築城年代は定かではないが貞和年間(1345年〜1350年)頃に赤松貞範によって築かれたと云われる。 その後は赤松氏の守護代として最盛期には播磨国西八郡を領した宇野氏の居城長水城の支城となり、家臣に守らせた。
宇野氏は毛利氏と通じて、中国地方へ進出した羽柴秀吉と対峙したが天正8年(1580年)攻められ長水城とともに落城した。
篠の丸城は揖斐川、菅野川、伊沢川に囲まれた山塊の東端、標高325m程の山に築かれており、現在は最上山公園の一角として整備されている。
山上に逆L字型に曲輪が設けられており、西尾根を三重堀切で遮断し、北側面に無数の畝状竪堀群を設けている。
主郭Iは南北にやや長い方形で南西側にL字に土塁が巡り外側には横掘8を設けている。南端中央に土塁の開口部があり虎口と思われる。主郭には妙見宮が祀られており、周囲に散乱している瓦はそれに関連するものだろう。
主郭から西へ続く尾根の先に展望台のある曲輪IIがある。尾根の途中には南北両サイドに凹みがあり南側は竪堀状地形も確認できるので、堀9?の場所には堀があった可能性がある。
主郭から北へ続く尾根には無数の段曲輪が設けられており、圧巻である。東西両側面には武者走りがあり、西側は一部土塁を伴う。
北西側面には横掘4が設けられ、その外側には畝状竪堀群5、6がある。ともに放射線状に設けられた竪堀群で、下方中央で重なるあたりには、北麓から登ってくる山道が接続している。
西尾根は三重堀切1で、堀切から伸びる竪堀も含め北側に畝状竪堀群2が設けられている。曲輪IIから南へ伸びる尾根には浅いが幅広の堀切3があり、土橋がかかって右折れで曲輪に登る山道が接続している。
主郭から南へ伸びる尾根にも段曲輪群が設けられているが、堀切などは見当たらない。駐車場から南の千畳敷に続く遊歩道に一ヶ所両サイドが竪堀になっている部分があり、堀切の可能性がある。
標高100m弱の所にある最上山公園まで車で登ることができる。そこから整備された登山道が山頂の主郭まで続いている。
最寄り駅(直線距離)