元和元年(1615年)池田輝澄によって築かれた。 輝澄は姫路藩主池田輝政の四男で生母は徳川家康の次女督姫である。これにより輝澄は松平姓を賜わっている。
寛永8年(1631年)輝澄は佐用郡を加増され六万石を越えたが、寛永15年(1638年)お家騒動により改易となった。改易となった輝澄は鳥取藩主池田光仲にお預けとなって因幡国鹿野に堪忍料一万石を与えられた。寛文2年(1662年)輝澄が没すると子の政直に一万石が与えられ、福本藩を立藩して大名に復している。
寛永17年(1640年)和泉国岸和田より(松井)松平康映が入封するが、慶安2年(1649年)石見国浜田へ移封となる。
同年備前国児島から池田恒元が入封するが、3代数馬が幼少で没し改易となる。
延宝7年(1679年)大和国郡山から本多忠英が一万石で入封し、以後明治に至る。
紙屋門(移築 城門)