寛永3年(1626年)池田重利によって築かれた。 新宮藩池田氏の祖重利は、本願寺門徒の坊官下間頼龍の子下間頼広で、池田恒興の女を娶った縁から池田輝政に仕えた。
大坂夏の陣の功によって摂津国に一万石を領し、元和3年(1617年)所領を播磨国に移され、はじめは鵤に陣屋が置かれたが、寛永3年(1626年)に新宮に移された。
重利の後は、重政・薫彰・邦照と四代続いたが、寛文10年(1670年)に邦照が嗣子なく十三歳で没し、新宮藩は改易となった。しかし、本家岡山藩・鳥取藩の奔走によって邦照の弟重教が遺領の内三千石を与えられ、交代寄合の旗本として明治まで続いた。
新宮陣屋は揖保川と栗栖川との間にある平地に築かれていた。南には出雲街道(智頭街道)が通っている。
現在周囲は宅地となっているが、陣屋跡には案内板が建ち石垣の一部が残っている。 梅岳寺は池田氏の菩提寺で三代新宮藩主池田薫彰の墓碑がある。梅岳寺の前身は播磨守護赤松則祐が城山城の鬼門を護るために開山した城禅寺という。
国道179号線を北上すると新宮三差路で西へ曲がります。曲がって直ぐ右側に「新宮中央公園(こころん広場)」があり、その西側の道路を北へ曲がって線路を越えて北上すると陣屋跡の案内板が建っている。
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