天智2年(663年)に唐・新羅軍と対峙した日本と百済の連合軍は白村江の戦いにおいて大敗した。城山(きのやま)は大陸からの侵攻に備えて大宰府を置き九州や瀬戸内各所に城を築いた古代朝鮮式山城の一つ。また、赤松氏によって築かれた中世山城が混在する山城である。
朝鮮式山城の遺構としては主に西側斜面にあり門の礎石、石塁、土塁などが残っている。
中世山城としては文和元年(1352年)頃に赤松則村(円心)の三男赤松則祐によって築かれたと云われる。室町将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱で、赤松満祐が坂本城を逃れ最後に籠ったのが城山城で、嘉吉元年(1441年)9月10日満祐以下一族69人が自刃した。
その後荒廃していた城山城であったが、天文7年(1538年)播磨へ侵攻した尼子晴久が城山城を再興して撤退するまでの三年間、ここを本拠とした。この撤退によって廃城となったといわれる。
城は揖保川の西岸にある山塊の亀山(きのやま)山頂付近に築かれている。 標高400mを越える山で東斜面は急峻であるが、山上は比較的広くなだらかである。 古代山城と中世山城の複合遺跡である。遺構として明瞭なものは古代山城に関するもので、水門の石塁や門の築石などが顕著に残る。中世山城の遺構は難しいが、二重になった横堀がそれであろうか。山は全体的に山頂は自然地形に近く、一段低い谷間に平段を設けてあり、山岳寺院跡のような印象を受ける。
東麓の馬立から通じる道が大手で、ここから登るとちょうど亀の池との分岐点付近の尾根に達する。ここから尾根道を南へ進むと標高458.0mの亀山山頂に達する。この北側に横堀があり堀は屈折して北方向へ伸びる。途中二か所程土橋のようなものがある。この堀の北端から西へ行くと石塁があり、更に北西尾根に行くと門の礎石が2つ残る。
山頂から南へ行くと谷間に沿って広大な屋敷跡のような削平地が南東方向へ伸び、更に峰の間の谷間を南に曲輪が連なる。この谷間の平坦地に嘉吉の乱戦死者を祀った碑と案内板が立っている。
この谷間の東の峰は山頂部分は手狭な削平地であるが、その周囲に広い曲輪があり、一部に建物の基壇と思われる石列や土塁が残る。
登山口は無数にあるようです。大手道は馬立地区にあり、国道179号線から県道724号線に入って道なりに進むと、道路西側に大手登山口の道標があります。ここには馬立古墳群もありますので、古墳を見ながら登ることができます。搦手は市野保地区にあり越部八幡神社を目指して行けば道標があります。南の龍野まで従走路もあり、一日楽しめる山です。
最寄り駅(直線距離)