大永年間(1521年〜1527年)に金光備前によって築かれた石山城が始まりと云われる。 当時、沼城に居城を置いていた宇喜多直家は石山城にいた金光宗高を謀殺して石山城を手中に納めると、岡平内に命じて城を大改修し完成した天正元年(1573年)に岡山城に移ったと云われる。
直家の子秀家は豊臣秀吉に寵愛されて五大老に列せられ、天正18年(1590年)頃から五十八万石に相応しい城郭へと改修された。このとき石山城の本丸を二の丸、東にあった岡山に本丸を築いており、戦災によって焼失した天守もこの頃に築かれたものである。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で敗れた秀家は八丈島へ流罪となり、代わって筑前国名島より小早川秀秋が備前・美作五十二万石の大名として岡山へ入封する。この秀秋の時代にも外曲輪の拡張など改修されたが、慶長7年(1602年)秀秋は急死し、嫡子なく断絶となった。
慶長8年(1603年)播磨国姫路藩主池田輝政の五男池田忠継が二十八万石で岡山藩主となった。忠継の母が徳川家康の娘督姫であったことからであるが、このとき忠継はわずか五歳であったことから、兄池田利隆が藩政を代行した。現存している西丸西手櫓はこの時代の作事といわれる。慶長18年(1613年)父輝政の死により遺領の一部十万石が与えられ三十八万石の大名となったが、慶長20年(1615年)わずか十七歳で病没した。
忠継のあとは同母弟の池田忠雄が家督を継いだが、このとき輝澄に播磨国山崎三万八千石、政綱に播磨国赤穂三万五千石、輝興に播磨国佐用二万五千石を分与し、岡山藩は三十一万五千石となった。
寛永9年(1632年)忠雄が没して嫡男光仲が家督を継いだが、幼小であることを理由に因幡国鳥取へ転封となり、代わって因幡国鳥取から池田家宗家である池田光政が入封し、以後十代続いて明治に至る。
岡山城は岡山県庁の北にあり本丸は烏城公園として整備されている。 岡山城は本丸東背後に付け替えた旭川を天然の濠とし、西に西の丸、二の丸、三の曲輪、三の外曲輪を配していた。
本丸には五重六階望楼型の天守があり、昭和20年に戦災によって焼失した天守は安土城を模したものとも云われている。現存する建物は本丸中の段北西隅にある二重二階の月見櫓、旧内山小学校校庭にある二重二階西丸西手櫓でいずれも国指定重要文化財である。
旧石山城本丸が二の丸2丁目の駐車場(地図)にあり、入口に「宇喜多氏築城以前 岡山城本丸跡」の碑が建っている。山陽放送の南西側の交差点付近が旧石山門跡(地図)で富山城から移築したと伝えられる櫓門が現存していたが、これも戦災によって焼失している。
旭川の対岸にある特別名勝後楽園は池田綱政によって造営された大名庭園で、旭川に面した部分には殿様が船で入園するための御舟入があった。
西丸西手櫓は近年まで外側にビルが建っていて外観を見ることができなかったが、ビルが解体されて平面駐車場となり外観を見学することが可能となった。
月見櫓(現存 櫓)
西丸西手櫓(現存 櫓)
天守(復元 天守)
不明門(復興 櫓門)
六十一雁木上門(復興 城門)
廊下門(復興 櫓門)
岡山城の有料駐車場は林原美術館の東側にあるが、後楽園側にある駐車場の方が料金が安く、後楽園とともに散策して長時間駐める場合は後楽園側の駐車場を利用した方が良いだろう。後楽園入口脇には県立博物館もある。
最寄り駅(直線距離)