築城年代は定かではないが寛治年間(1087年〜1094年)に藤井久任が築城したといわれる。
三村氏の持城となったあと毛利方の備中境目の城としての役割を担う。天正10年(1582年)羽柴秀吉の中国侵攻によりこの地でも激戦が行われ落城し戦後は宇喜多氏の部将が城番として置かれた。
江戸時代に庭瀬を利用した戸田達安は、庭瀬陣屋を築き、その一部として取り込まれていた。延宝7年(1679年)庭瀬藩四代戸川安風がわずか九歳で早世すると、戸川家は嗣子なく改易となった。しかし、戸川家の名跡は先に一千石を分知されていた安風の弟戸川達富が五千石に加増されて継ぐこととなり、この達富の時代に撫川陣屋が築かれ、以後戸川家は旗本として明治まで続いている。
撫川城は現在の三神社境内に築かれていた。東西に長い方形の曲輪を高石垣と堀が巡っており、北西隅部は櫓台のようで張り出しがある。南側にある入口には明治以降に現在地に移築された撫川知行所総門が残っている。
近くの不変院は庭瀬藩祖の戸川達安が建立した戸川氏の菩提寺で、墓所には二基の五輪塔が残っている。
撫川知行所総門(移築 城門)
南側の公園入口付近に駐車することも可能であるが、東の清山神社北側にある庭瀬城の所にある駐車場を利用しても良いだろう。
最寄り駅(直線距離)