築城年代は定かではないが三村元親が宇喜多に対する備えとして築いたのが始まりと云われる。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の功により戸川肥後守達安が備中国庭瀬二万九千二百石に封ぜられた。戸川達安は元々は宇喜多氏の家臣であったが、慶長5年(1600年)宇喜多家の御家騒動により出奔、関ヶ原合戦で東軍に属して戦功を挙げた達安は、徳川家康より庭瀬に所領を与えられ大名となった。
戸川達安は庭瀬城の二の丸に陣屋を構えて城下町を整備した。寛永5年(1628年)達安が没して戸川正安が家督を継ぐと、弟安尤に早島三千四百石、弟安利に帯江三千三百石を分知し、二万二千五百石となった。
寛文9年(1669年)正安が没して戸川安宣が家督を継ぐと、弟安成に千五百石を分知し、二万一千石となった。延宝3年(1675年)戸川安風が家督を継ぐと、弟達富に一千石を分知し、二万石の大名となったが、延宝7年(1679年)に安風はわずか九歳で早世し、嗣子なく改易となった。しかし、戸川家の名跡は先に一千石を分知されていた安風の弟戸川達富が五千石に加増されて継ぐこととなり、撫川に陣屋を構えて旗本として続いている。
天和3年(1683年)下総国関宿より久世重之が五万石で入封するが、貞享3年(1686年)丹波国亀山藩に転封となる。
元禄6年(1693年)大和国興留より(藤井)松平信通が三万石で入封するが、元禄10年(1697年)出羽国上山へ転封となる。
元禄12年(1699年)板倉重高が上総国高滝より三万石で入封、以後代々続いて明治に至る。
庭瀬陣屋は現在の清山神社一帯に築かれていた。庭瀬城に近接して撫川城があり、この一帯は現在でも堀跡でもある水路が張り巡らされ、道も狭くなっている。
以前訪れたときには無かった駐車場が清山神社の北側にあり、そこに周辺の史跡を巡るパンフレットも置かれていた。ここから北へ通じる道が大手道で、水路に架かる橋には「庭瀬城大手門」と刻まれている。大手門の東側一帯も公園になって、常夜灯が復元されている。
近くにある松林寺は板倉氏の菩提寺で庭瀬城主宗廟がある。
山陽本線庭瀬駅から400m程西にある。清山神社の北側に駐車場があり、ここに周辺の史跡地図とパンフレットが用意されている。
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