天正5年(1577年)明智光秀によって築かれた。 光秀は織田信長から丹波攻略を命ぜられると亀山城を築いて丹波攻略の拠点とした。
天正10年(1582年)光秀は亀山城を出発して京都本能寺に織田信長を襲い本能寺の堡変をおこしたが、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れて戦死した。
天正11年(1583年)には羽柴秀勝、天正18年(1590年)には羽柴秀俊(後の小早川秀秋)が城主となる。その後羽柴秀俊は小早川隆景の養子となり筑前中納言小早川秀秋として筑前国名島に移る。
その後、豊臣家五奉行の一人前田玄以が五万石で入封。遺領を継いだ次男前田茂勝は慶長7年丹波国八上へ移封となった。
・慶長14年(1609年)下総国山崎より岡部長盛が三万二千石で入封。
・元和7年(1621年)岡部長盛は丹波国福知山へ転封。
・元和7年(1621年)三河国西尾より(大給)松平成重が二万二千二百石で入封。
・寛永11年(1634年)(大給)松平忠昭の時に豊後国亀川へ転封。
・寛永11年(1634年)近江国膳所より菅沼定芳が四万一千石で入封。
・正保4年(1647年)菅沼定昭が嗣子なく没し除封。
・慶安元年(1648年)遠江国掛川より(藤井)松平忠晴が三万八千石で入封。
・貞享3年(1686年)(藤井)松平忠周の時、武蔵国岩槻へ転封。
・貞享3年(1686年)備中国庭瀬より久世重之が五万石で入封。
・元禄10年(1697年)久世重之は三河国吉田へ転封。
・元禄10年(1697年)美濃国郡上より井上正岑が四万七千石で入封。
・元禄15年(1703年)井上正岑は常陸国下館へ転封。
・元禄15年(1703年)遠江国浜松より青山忠重が五万石で入封。
・寛延元年(1748年)青山忠朝の時、丹波国篠山へ転封。
・寛延元年(1748年)丹波国篠山より(形原)松平信岑が五万石で入封。
以後、(形原)松平氏が八代続いて明治に至る。
現在は宗教法人大本教の本部が置かれているが、受付で説明を受けた後、許可を得て一部見学することができる。
令和2年(2020年)の大河ドラマ『麒麟がくる』によって亀山城も注目され、ほんらい神域にあって見学が叶わなかった本丸の上にある「大チョウ」が特別公開されている。この大イチョウは明智光秀御手植えと伝えられてきたが、江戸中期に台風で倒れ後継ぎに若木を植えたものだと伝えられている。
現在の本丸高石垣は山陰線建設のために石材が持ち去られ荒廃していた城山を大本教が買取り、石垣を改めて築き上げて神域としたものである。下層の一部は本来の石垣と云われているが、改めて実見してみるとやはり江戸時代以降の石垣の積み方と考えられる。ただ、使われている石材に関しては矢穴な刻印などが残されている石が多くあり、見ごたえがある。
新御殿門(移築 城門)
邁訓校校門(移築 城門)
明智門(移築 城門)
明智門(移築 城門)
城門(移築 城門)
大本教に一般駐車場がある。見学は受付でお願いすることで可能で、2020年現在は特別公開として有料となっている。
最寄り駅(直線距離)