永禄2年(1559年)遠藤盛数によって築かれた。 遠藤氏は承久の乱の功によって山田荘の新補地頭として、はじめ阿千葉城を居城とした東氏の庶子、遠藤盛胤が木越城主となったことに始まる。
遠藤胤縁の頃には主家東氏を凌ぐ程の勢力となり、東常慶の子常尭は遠藤氏と婚姻を結んで勢力の回復を計ろうとしたが、胤縁は畑佐氏に嫁がせ、これを恨んだ常尭は永禄2年(1559年)赤谷山城で胤縁を暗殺した。 これに対して苅安城主で遠藤胤縁の弟遠藤盛数は、胤縁の嫡子遠藤胤俊を助けて赤谷山城を攻め落とした。その後に郡上郡を支配するために築いた城が郡上八幡城である。
和暦(西暦) | 事象 |
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天正16年(1588年) | 遠藤慶隆は織田信孝に与したことで、羽柴秀吉に所領を没収され犬地へ転封となり、稲葉貞通が四万石で入封。 |
慶長5年(1600年) | 稲葉貞通は豊後国臼杵へ五万石で転封。 遠藤慶隆が旧領の郡上郡二万七千石で入封。 |
元禄5年(1692年)3月 | 遠藤常久が7歳で嗣子なく没し、幕府によってお取り潰しとなったが、先祖の遠藤慶隆の功績が認められ、一族の遠藤胤親を大垣新田藩主戸田氏成の養子とし、常陸国・下野国に一万石を与えられて存続。 常陸国笠間より井上正任が五万石で入封。 |
元禄10年(1697年) | 井上正岑は丹波国亀山へ転封。 出羽国上山より金森頼岩が三万八千石で入封。 |
宝暦8年(1758年) | 金森頼錦は、宝暦4年(1754年)に領内で発生した宝暦騒動を引き起こした治政怠慢の罪により改易。 丹後国宮津より青山幸道が四万八千石で入封。以後、青山氏が七代続いて明治に至る。 |
郡上八幡城は吉田川と小駄良川の合流地点の北東に聳える標高350m程の山に築かれている。
郡上八幡城は模擬天守が建つ山上の遺構と、江戸時代に居館があった山腹の遺構とで構成する。
山上には石垣で囲まれた曲輪群があり、天守の南に桜の丸、北に松の丸がある。現在建っている天守は木造で昭和初期に大垣城をモデルに造られたものである。北にある駐車場を越えて北の尾根を登っていった所に搦手の大堀切が二条残っている。
江戸時代に本丸が置かれたのは山腹で、岩劔神社の境内や山内一豊の銅像がある公園となっている所である。遺構は井戸や石垣があるが、石垣は道路建築などの影響を受けている。
天守(模擬 天守)
山内一豊の像のある山腹の公園と、山上に無料駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)