築城年代は定かではないが南北朝時代に東氏村によって築かれたと云われる。 東氏は下総国千葉氏の支族で、承久の乱(1221年)の功により郡上郡山田荘の新補地頭職を得て東胤行が下向して阿千葉城を築いたことに始まる。
四代東氏村は当時勢力を誇っていた鷲見城主鷲見氏との距離が近すぎることと、南朝方の拠点である越前からの来襲に備えるために、篠脇城を築いて居城を移したといわれる。
東氏は代々文武両道で続後撰集、続拾遺集、新続古今集などに入っていた。 応仁の乱が勃発すると東氏は東軍の細川氏に味方したが、美濃国守護の土岐は西軍の山名氏に味方した。この結果、応仁2年(1468年)守護代斎藤妙椿の攻撃を受け、激戦の末落城した。このとき関東に下向していた東常縁は「あるが内に斯かる世ーしも見たりけり、人の昔の猶も恋しき」と詠んだ。人づてに聞いた妙椿は自分に詠を贈ってくれたら所領を返そうと約束すると、「吾世経むしるへと今も頼む哉、みののお山の松の千歳を」をはじめ十首の和歌を贈ったという。これを受けた妙椿は約束通り所領を全て返還したという。
その後、十二代常慶の時、天文9年(1540年)と翌年の天文10年に越前国朝倉氏の攻撃を受け、この時はかろうじて撃退するが、東殿山に赤谷山城を築いて居城を移した。
篠脇城は栗巣川南岸の標高480m程の山に築かれている。北麓に東氏の館跡があり、そこから遊歩道が主郭まで通じている。
篠脇城はほぼ単郭の城でその周囲を巡る圧巻の畝状竪堀群が著名である。主郭部は大きく三段程の曲輪となっており、南端には南へ張り出した櫓台がある。虎口は東と西にあるが、東が元々の虎口、西は虎口か後世の改変か現状では不明である。
畝状竪堀群は主郭部のやや高い切岸の下からコブを持つ竪堀が無数に落ちており、コブの高さは概ね1m前後である。南尾根は大堀切があり、さらに背後にも土橋が架かる堀切などがあるが、曲輪としての造成は見あたらず緩斜面地形となる。
北西の山腹に井戸が一つあり、その脇に尾根を遮断する堀切がある。
国道156号線から県道318号線に入って東へ進むと「古今伝授の里大和町文化財展示館・フィールドミュージアム」があり、そこから南側へ橋を渡った所に東氏館跡庭園と篠脇城への登山口がある。
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