築城年代は定かではないが篠脇城主東常縁の庶子遠藤盛胤によって築かれたと云われる。
盛胤の孫にあたる遠藤胤縁の頃には主家東氏を凌ぐ程の勢力となり、東常慶の子常尭は遠藤氏と婚姻を結んで勢力の回復を計ろうとしたが、胤縁は畑佐氏に嫁がせ、これを恨んだ常尭は永禄2年(1559年)赤谷山城で胤縁を暗殺した。
これに対して苅安城主で遠藤胤縁の弟遠藤盛数は、胤縁の嫡子遠藤胤俊を助けて赤谷山城を攻め落とした。しかし、盛数は郡上八幡城を築きいて自身が郡上郡を支配し、嫡子胤俊には木越城を与えた。
その後、遠藤胤俊の弟胤基が家督を継いで木越城主となっていたが、天正16年(1588年)郡上八幡城主遠藤慶隆とともに織田信孝に与したことで、羽柴秀吉に所領を没収され犬地六千五百石へ転封となった。
城は長良川の南側にある山に築かれている。城山の南側には谷間となって沢が流れておりほぼ独立した山で、長良川に面して急峻な地形である。
西麓から山へ入ると中腹あたりに、腰曲輪状の平坦地が二段広がっている。 ここから山頂へ至る途中には南側に竪堀が一条あり、山頂付近からはもう一条の竪堀が南側へ落ちている。山頂部は東西に長い主郭があり、その東西に小曲輪が配置されている。
羽柴秀吉に仕えて土佐一国の領主となった山内一豊の妻見性院(俗に千代)は、その出自に関しては謎の多い人物であるが、最近はこの遠藤慶隆の妹という説が有力となっている。
国道156号線から長良川の反対側を通る県道51号線に入り、城山付近に行くと「金松館」という料理旅館がある。これを目指して行くと案内板と標柱が建った登山口が見付かる。
最寄り駅(直線距離)