築城年代は定かではない。応永の頃に築かれたとも云われる。
慶長5年(1600年)関ケ原合戦で東軍に属していた遠藤慶隆が八幡城を奪還するさいに野尻城と法師丸砦に宿営したという。その後、八幡城主に復帰すると支城として野尻城を改修したが、元和の一国一城令によって廃城となったという。
野尻城は境城のある標高681.3mの山から南西に伸びた尾根の先端の小高くなった場所に築かれている。
堀切を挟んで東西二郭あり、東が主郭となる。主郭は東側に土塁あり、高い切岸が周囲を巡る。西の曲輪は堀切と南東に土塁があり、内部は細かく数段の曲輪となる。北東側の鞍部を馬場と称しているが、城域ではないように思う。この馬場側に面して竪堀があり、一部横堀もある。
登山道は戸隠神社の境内西側にあり、神社の駐車場が利用できる。野尻城の登山道の途中から鏡城への登山道がある。