武蔵 岩槻城むさし いわつきじょう

城郭放浪記


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武蔵 岩槻城の写真
掲載写真数
形態
平城
別 名
白鶴城,浮城
文化財指定
県指定史跡
遺 構
門,土塁,郭,堀
城 主
太田氏,高力清長,高力正長,高力忠房,青山忠俊, 阿部正次,阿部重次,阿部定高,阿部正春,阿部正邦, 板倉重種,戸田忠昌,松平忠周,小笠原長重,小笠原長煕, 永井直敬,永井尚平,永井直陳, 大岡忠光,大岡忠喜,大岡忠要,大岡忠烈,大岡忠正,大岡忠固, 大岡忠恕,大岡忠貫
歴 史

長禄元年(1457年)太田道真・道灌父子によって築かれた。 関東管領扇谷上杉持朝は古河公方足利成氏に対抗するため、太田父子に命じて築かせた。

大永4年(1524年)小田原の北条氏綱は扇谷上杉朝興の居城である江戸城を攻め落とし、翌5年には岩槻城に侵攻、家臣渋江三郎が北条氏綱に内応したため落城、北条氏は渋江三郎を守将とした。 石戸城へ逃れた太田資頼は、享禄3年(1530年)岩槻城を奪い返した。資頼の子資正が継いだ後、扇谷上杉氏が滅び、山内上杉氏も越後国長尾氏を頼って落ち延びると、資正は上杉政虎(謙信)と結び、北条氏に対抗する。 しかし、永禄7年(1564年)里見氏等とともに北条氏と戦ったが破れ、北条氏の謀略により長子氏資が寝返り、資正は佐竹氏を頼って落ちた。

天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、浅野長政等が攻め寄せ落城した。 徳川家康が関東に入部すると、高力清長が二万石で入封するが、江戸時代を通じて激しく城主が替わっている。

和暦(西暦) 事象
元和5年(1619年) 高力忠房は遠江国浜松に転封。
元和6年(1620年) 青山忠俊が四万五千石で入封。
元和9年(1623年) 青山忠俊は上総国大多喜に転封。
相模国小田原より阿部正次が五万五千石で入封。
天和元年(1681年) 阿部正邦が丹後国宮津へ転封。
下野国烏山より板倉重種が五万石で入封。
天和2年(1682年) 板倉重種は老中を罷免され信濃国坂城へ転封。
河内国より戸田忠昌が五万一千石で入封。
貞享3年(1686年) 戸田忠昌は下総国佐倉へ転封。
丹波国亀山より(藤井)松平忠周が四万八千石で入封。
元禄10年(1697年) (藤井)松平忠周は但馬国出石へ転封。
三河国吉田より小笠原長重が五万石で入封。
宝永7年(1710年) 小笠原長煕は遠江国掛川に転封。
正徳元年(1711年) 信濃国飯山より永井直敬が三万三千石で入封。
宝暦6年(1756年) 永井直陳は美濃国加納に転封。 上総国勝浦より大岡忠光が二万石で入封し、以後八代続いて明治に至る。

説 明

現在は岩槻公園となっている。 公園内には遊歩道となった堀跡や土塁が残り、北条氏によるものと思われる「堀障子」の説明がある。 また、移築されていた城門が再移築され、少し離れたところには「時の鐘」が現存している。

城は大構で外郭の土塁が岩槻駅の少し東にある愛宕神社(地図)に残っている。

時の鐘の写真

時の鐘(現存 櫓)


所在地: 埼玉県さいたま市岩槻区本町6
市指定文化財

黒門の写真

黒門(移築 長屋門)


所在地: 岩槻公園(埼玉県さいたま市岩槻区太田1)
県庁や市役所の通用門として利用されていたが、昭和40年 再び岩槻公園に移築された。
市指定文化財

裏門の写真

裏門(移築 城門)


所在地: 岩槻公園(埼玉県さいたま市岩槻区太田1)
廃城後、払い下げられていたものを昭和55年再び岩槻公園に移築された。
市指定文化財

案 内
最寄り駅(直線距離)
1.3km 東岩槻駅
1.5km 岩槻駅
2.4km 豊春駅
4.2km 八木崎駅
4.3km 七里駅
所在地/地図
埼玉県さいたま市岩槻区太田1(岩槻公園)
付近の城(直線距離)
6.3km 武蔵 中丸城
6.5km 武蔵 大和田陣屋
7.1km 武蔵 土呂陣屋
7.7km 武蔵 伊奈氏陣屋
最終訪問日
2007年5月
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