慶長9年(1604年)小出吉英によって築かれた。 小出氏は吉英の父秀政が豊臣秀吉と姻戚関係にあったため大名に取り立てられた。
関ヶ原合戦で吉英は西軍に組し丹後国田辺城を攻めたが、父秀政と弟秀家が東軍に属して活躍したため不問にされた。 慶長9年(1604年)和泉国岸和田城主の小出秀政が亡くなると、吉政を岸和田城へ移し、出石は吉政の子吉英が継いだ。 その後吉英は一時岸和田城へ移り、吉親が出石を領したが、元和5年(1619年)吉親は丹波国園部に移り、再び吉英が出石を領した。
吉英は有子山城の山麓に新たに出石城を築城し以後9代続いたが嫡子なく改易となり、元禄10年(1697年)武蔵国岩槻から四万八千石で(藤井)松平忠周が入封する。
宝永3年(1706年)(藤井)松平氏は信濃国上田へ転封となり、代わって信濃国上田から仙石政明が五万八千石で入封した。 仙石氏は後に仙石騒動によって三万石に減封されたが明治まで続いた。
出石城は有子山城の北麓に築かれている。出石城には天守はなく、櫓が四基上げられていた。そのうち本丸西隅櫓と東隅櫓が現在復興されている。
出石城の最上段は稲荷曲輪で、そこから雛壇状に本丸、二ノ丸、下の曲輪と続き、麓に三ノ丸があった。本丸の東側には山里曲輪があり、西下には西曲輪がある。三ノ丸北の大手門には水堀が現存し、現在辰鼓楼(辰鼓櫓)がる。辰鼓楼は出石の街並みを象徴する建築物であるが、これは明治初期に作られた時計台で城の遺構ではない。
登城門(復興 城門)
平成6年に復興した本丸西隅櫓(復興 櫓)
本丸東隅櫓(復興 櫓)
三ノ丸に有料駐車場があり、観光パンフレットがもらえる。
最寄り駅(直線距離)