天正11年(1583年)真田昌幸によって築かれた。
慶長5年(1600年)真田昌幸とその子信繁(幸村)は、関ヶ原合戦に向けて西上する徳川秀忠率いる中山道軍を上田城に籠城して遅延させ、秀忠は関ヶ原合戦に間に合わなかった。東軍処理となると昌幸・信繁父子は東軍に付いた長子信幸の嘆願により助命され、紀伊国九度山に配流となった。
関ヶ原合戦後、依田信守によって城は破却されるが、その後真田信幸が九万五千石で入封する。信幸は徳川への配慮か破却された城の修繕を余り行わなかったようである。
元和8年(1622年)信幸は松代へ転封となり、替わって仙石忠政が小諸から六万石で入封し城を大改修する。現在残る遺構はこの仙石氏の時代のものである。 宝永3年(1706年)仙石氏は但馬国出石に移封となり、替わって但馬国出石から(藤井)松平氏が五万八千石で入封し明治に至る。
上田城は千曲川北岸の段丘の南端に築かれており、現在は上田城跡公園として整備されている。
上田城は本丸を中心に北から東を覆うように二ノ丸、西に小泉曲輪、南は「あまがふち」と呼ばれ段丘となっている。正保4年(1647年)の絵図では本丸に七基の櫓が描かれ全て二重櫓となっている。この内現存するのは西櫓で、東側にある北櫓と南櫓は一度移築されていたものを再移築したものである。
本丸の北から東を覆う二ノ丸には市立博物館や上田招魂神社などがあり、北虎口と東虎口に石垣が現存している。東虎口の外側には遊歩道となった堀跡がある。
西櫓(現存 櫓)
南櫓(移築 櫓)
北櫓(移築 櫓)
本丸東虎口櫓門(復元 櫓門)
東側の二ノ丸と南下の公園にそれぞれ無料駐車場がある。公園内は無料で開閉時間もなく見学することができるが、北櫓・南櫓と市立博物館の見学は有料となっている。
最寄り駅(直線距離)