慶長6年(1601年)真田信之によって築かれた。
関ヶ原合戦で真田昌幸は徳川秀忠率いる別働隊を上田城に迎え撃ったが、合戦は東軍の勝利となり昌幸は所領を失って九度山へ配流となる。変わって上田の地を領したのは東軍に属していた昌幸の長男信之であったが、上田城は既に破却されていた。信之は幕府への配慮から上田城を修築することなく、三の丸であったこの地に居館を築き上田の所領を統括した。以降、上田城主となった仙石氏や松平氏の藩主もこの地を居館とし、明治まで続いた。
上田藩主居館は現在の上田高校の敷地になっている。四方に堀や土塁を巡らせた居館であったが、現在は東側一帯に堀や土塁が残っている。また東門や土塀も現存する建物である。
土塀(現存 その他)
表門(現存 城門)