天正2年(1574年)山名祐豊によって築かれた。 永禄12年(1569年)羽柴秀吉によってそれまでの居城であった此隅山城が落城し、山名祐豊は但馬から堺へ逃れた。その後、堺商人の力を借りて但馬に復帰し、天正2年(1574年)に有子山城を築いて居城とした。 このとき、此隅山城の別名子盗を嫌い有子と名付けたと云われる。
但馬へ復帰した山名祐豊であったが、天正8年(1580年)再び織田軍の羽柴秀長によって攻められ有子山城は戦うことなく開城、城主山名氏政は城を脱して因幡へ逃れ、城内に残った山名祐豊は五日後に病死したと云われる。
天正13年(1585年)前野長康が五万石で入封したが、関白豊臣秀次の処刑に連座して殺された。文禄4年(1595年)播磨国龍野から小出吉政が五万三千石で入封、慶長9年(1604年)小出吉英が山麓に出石城を築いて居城とし、山頂の有子山城は廃城となった。
有子山城は近世城郭である出石城の背後に聳える標高321mの山頂に築かれている。 2006年に訪れたときには夏場であったためか草が生い茂り石垣も所々埋もれていた印象であったのが、今回はきれいに整備されていた。
有子山城は石垣造りの主郭部があり、この石垣は山名氏以降に入部した織豊系部将によって整備されたものだと考えられている。本丸は東西に長い曲輪でそこから西へ階段状に曲輪を連ねる。本丸の石垣は北から西側にかけて築かれているが、東から南側には存在しない。この辺りは城下から見える場所を優先した結果であろうか。ただ、西下にある曲輪には南側にも石垣が存在しているので別の理由かもしれない。
本丸の南東側には千畳敷と呼ばれる大きな曲輪があり、内部は石塁などによって区画された跡が残る。本丸との間は大堀切になっている。
有子山城は千畳敷の東、西郭の南西尾根、そして北西に伸びた尾根に大堀切があり、見所である。北側山腹には急斜面に石垣が数段にわたって築かれている部分があるのだが、ここが井戸曲輪である。
一般的には出石城の最上段である稲荷曲輪の脇に登山口があり、そこから急坂の尾根道を登っていくと本丸にたどり着く。
以前訪れたときに利用したのは東の県道253号線の鯵山峠から続く整備用の林道で、入口は封鎖されて一般車両は通行できないが、歩いて登ることは可能。この道はなだらかな道が続くので距離は長いが楽に登ることができる。
最寄り駅(直線距離)