築城年代は定かではない。建久年間(1190年〜1199年)には岸和田古城に和田氏がおり、その後も信濃氏や細川氏、松浦肥前守、三好義賢などがこの辺りに城を構えていた。
近世城郭として整備し始めたのは小出秀政の頃で、文禄4年(1595年)頃には三万石の大名となり、五重の天守を造り始め、慶長2年(1597年)に完成したという。 慶長9年(1604年)小出秀政が没すると、但馬国出石城主であった小出吉政が岸和田へ移り、出石城は子の吉英が継いだ。
その吉政も慶長18年(1613年)に没し、出石より小出吉英が岸和田へ移ると、慶長19年(1614年)には大坂冬の陣で松平信吉が城代となり、小出吉英は先鋒として出陣した。
和暦(西暦) | 事象 |
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元和5年(1619年) | 小出吉英は但馬国出石へ転封。 丹波国篠山(松井)松平康重が五万四百石で入封。 |
寛永8年(1631年) | 康重は高直しにより六万四百石。 |
寛永17年(1640年) | 松平康映が家督を相続。このとき早世した兄康政の長男康朗に五千石、弟康命に三千石、弟康紀に二千石をそれぞれ分与し、五万四百石となる。 松平康映は播磨国山崎に五万石で転封。 岡部宣勝が摂津国高槻より六万石で入封。 |
寛文元年(1661年) | 家督を継いだ岡部行隆は弟高成に五千石、弟豊明に二千石を分与して五万三千石となる。以後、岸和田藩は代々岡部氏が続き明治に至る。 |
岸和田城は岸和田市役所の隣にあって公園として整備され、本丸、二ノ丸とそれを囲む水堀が良く残されている。
本丸には昭和に建てられた三重の天守が建ち、展示がなされている。 本丸内には諸葛孔明の八陣法をモチーフとした石庭が造られている。
天守(復興 天守)
大手門(復興 櫓門)
本丸隅櫓(復興 櫓)
二ノ丸隅櫓(復興 櫓)