永禄元年(1558年)頃に根来衆によって築かれたと云われる。 根来衆が岸和田の三好氏と戦ったとき、砦として築かれたのが始まりと云われ、その後、根来衆の拠点の一つとして整備された。
天正13年(1585年)豊臣秀吉が岸和田城に入って本格的な戦いとなったが、この頃には積善寺城は二重・三重の堀を巡らせた堅固な城になっており、出原右京を大将として九千五百名の根来衆が立て籠もっていたという。秀吉方の攻撃にも落城せず、貝塚寺内の卜半斎了珍の仲介により開城となった。
積善寺城は現在の橋本集落一帯に築かれていた。 本丸は中心の明教寺付近であったという。東は津田川を天然の堀とし、東に二重、西に三重の堀が巡らされていた。
案内板は北の津田川に架かる橋の所に設置されており、貝塚中央病院から一方通行で橋本集落に入る旧道の所にあった。(地図)