築城年代は定かではないが天文年間(1532年〜1555年)に松浦肥前守守によって築かれたと云われる。
永禄元年(1558年)以降になって根来衆が野田山城を接収して根福寺城と改めたという。 天正13年(1585年)豊臣秀吉は岸和田城に入って根来・雑賀衆との戦いとなり、根福寺城も秀吉の手に落ちたという。
根福寺城は秬谷と大川にまたがる標高283mの山に築かれている。 東西およそ600mに及ぶ大きな山城で、東西の峰がそれぞれ東曲輪群と西曲輪群となり、中央鞍部に大手門があったと云われる。注目の遺構は南西側山腹にある畝状竪堀群で、起点となる畝の高さは2m程もあり、巨大な竪堀群が良好な形で残る全国的に見ても数少ない稀な山城である。
東曲輪群は、山頂南端を頂部として北と南東尾根、そして西側の谷間に曲輪が展開する。主線は北へ伸びる尾根で、先端付近の曲輪は広く礎石らしき石が点在し、瓦片も落ちている。南東尾根は階段状の削平地の先端を二重堀切をもって遮断する。西の山腹に展開する削平地は所々に石積が残されているが、斜面の中腹に位置するなど、いまいち用途が不明である。
西曲輪群は西端頂部を中心に北と東尾根に曲輪を展開する。北尾根は一段の削平地があり先端を堀切で遮断する。東尾根は大手側で先端に北側を土塁で囲んだ小郭が付いている。その東下の段は井戸らしき穴があり、その脇に礫石のような集石がある。
西曲輪群と東曲輪群の間が大手門跡で、入口の南端部分に石積された門跡らしき遺構が残されている。
注目の畝状竪堀群は西曲輪の西端から南へ降りた所にあり、横堀状に掘りきった山腹から巨大な竪堀を連続で落としている。東へ移動すると弓形状になった横堀があり、その東端から二条の竪堀が落ちている。さらに東へ移動すると、東曲輪群の南山腹に段違いに堀切が二条残され、その先端に土塁の付いた小段が残る。
大川集落側、案内板の南にある墓地に「殿の墓」と伝えられる墓が残されている。
府立少年自然の家から西へ進んで大川集落の入口にさしかかると、案内板がある。城山へはこの案内板の東側から階段が付いており、簡単に登ることができる。畝状竪堀群は道が薮化している部分も多く、西曲輪の西端から南へ降りるのが簡単である。
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