築城年代は定かではないが根来衆によって築かれたと云われる。
天正11年(1583年)豊臣秀吉は岸和田城に中村一氏を置いて根来・雑賀衆への抑えとした。当初小競り合いが続いたが、天正13年(1585年)秀吉は岸和田城に入り本格的な戦闘へと発展した。千石堀城には根来方の大谷左大仁を対象として千数百人が立て籠もり、城は容易に落ちなかったが、筒井順慶が放った火矢が城内にあった火薬の爆発を誘って大爆発を起こし落城したという。
千石堀城は名越駅の南西にある丘陵に築かれていた。
主郭は北へ伸びた丘陵の先端頂部にあり、横堀が巡らされ、東は二重堀になっている。かつて遊歩道が整備されたいたが、いまは荒れており、遊歩道は南北に曲輪を貫通していて、そこが虎口らしき地形になっている。
南の尾根には石碑と案内板が設置されており、以前訪れたさいにはこちらが城跡と勘違いし、主郭には行かずじまいであった。とても紛らわしい。
案内板はこの地図の位置。ロータリーから南へ続く車道沿いにフェンスが敷かれているが、それが途切れる辺りから南西の尾根上に登ると案内板がある。折れた石碑は尾根の南東側にある。
主郭にはロータリーから少し入った所から西の丘へ登ればよい。
最寄り駅(直線距離)