築城年代は定かではない。近藤忠範が久米路山と呼ばれる小丘に館を築いたのが始まりとも云われる。 記録に登場するのは十四世紀前半で、駿河より入部した入江左近将監春則が近藤氏を継いで居城としたことという。
大永7年(1527年)細川家の内紛による争いで、山崎城から敗走した薬師寺国盛が高槻入江城に入城した。永禄12年(1569年)には芥川山城主であった和田惟政に与えられ、惟政は高槻城へ居城を移し、芥川山城には家臣の高山飛騨守友照を置いた。しかし、元亀2年(1571年)和田惟政は三好三人衆と結んだ池田知正を討つべく出陣し、白井河原で合戦が行われたが、池田家臣の荒木村重によって討たれた。家督を継いだ和田惟長はその後、家臣の高山飛騨守・右近に追放され、元亀4年(1573年)高山氏の居城となった。
和暦(西暦) | 事象 |
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天正13年(1585年) | 高山右近は播磨国船上に転封。 |
文禄4年(1595年) | 大和国より新庄直頼が入封。 |
慶長20年(1615年) | 近江国長浜より内藤信正が四万石で入封。 |
元和3年(1617年) | 内藤信正は伏見城代になる。 下総国守谷より土岐定義が二万石で入封。 |
元和5年(1619年) | 土岐頼行は下総国守谷に転封。 三河国形原より(形原)松平家信が二万石で入封。 |
寛永12年(1635年) | (形原)松平家信が下総国佐倉に転封。 |
寛永13年(1636年) | 播磨国龍野より岡部宣勝が五万石で入封。 |
寛永17年(1640年) | 岡部宣勝は和泉国岸和田に転封。 下総国佐倉より(形原)松平康信が三万六千石で入封。 |
慶安2年(1649年) | 松平康信は丹波国篠山に転封。 山城国長岡より永井直清が三万六千石で入封。以後、永井氏が続き明治に至る。 |
高槻城は現在の高槻城跡公園付近一帯に築かれていた。 本丸は槻の木高校、二ノ丸がその北の公園、三ノ丸はそれを取り囲むように拡がっていた。
現在は市街地と化して明確な遺構を見ることが難しくなっている。城址公園には高山右近の銅像や天守台のようなものがあり、案内板や石碑が設置されている。また、付近には「高槻城厩廓 桝形門の石垣石」や「高山右近高槻天主教会堂跡」、「高槻城東大手門跡」などが案内板とともに展示されている。
第一中学校の北方にある「市立しろあと歴史館」には高槻城に関する資料が展示され無料で公開されている。
2023年に開館した高槻城公園芸術文化劇場の周辺には石垣などが復元整備され、城跡の雰囲気がでてきた。
門(移築 城門)