築城年代は定かではないが相馬氏によって築かれたと云われる。 相馬氏は千葉氏の一族で千葉常胤の子師常が相馬御厨を治めて相馬氏を称した事に始まる。江戸時代に陸奥相馬中村藩となった相馬氏もこの一族である。
相馬氏は大永5年(1525年)には相馬因幡守が守谷城を居城としていたことが確認されている。戦国時代には古河公方に従い梁田氏の配下となっていたが、小田原北条氏の勢力が伸びてくると梁田氏は北条氏に降り、このとき守谷城は北条氏によって接収された。北条氏は永禄11年(1568年)に守谷城を改修している。当初は古河公方足利義氏の御座所となるような話もあったようであるが、結局実現しなかった。天正18年(1590年)北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされ相馬氏もまた没落した。
北条氏に変わって徳川家康が関東に入部するとその家臣菅沼(土岐)定政が一万石を領して守谷城主となった。元和3年(1617年)土岐定義のとき摂津国高槻城に転封となり、一時幕府直轄領となったが、元和5年(1619年)定義が没して土岐頼行が家督を継ぐと幼小であったことから一万石に減封され守谷藩へと移された。寛永5年(1628年)土岐頼行は出羽国上山へ転封となり廃城となった。
守谷城は低湿地帯に突き出す台地に築かれており、現在は守谷城址公園となっている。
守谷城の城域は広く、南西は守谷小学校までが城域であったが、現在遺構が残るのは守谷城址公園となっている部分である。公園ではあるが、土塁や空堀の一部はロープによって遮られており、曲輪や堀底を自由に歩くことは難しい。
公園には大きく三つの曲輪があり、それぞれ大きな空堀で区画されている。中央の曲輪には土塁や虎口、土橋などが確認できる。
公園の駐車場があり遊歩道が整備されている。駐車場は西側の住宅地の中に小さなものがあり、北の部分には広い駐車場がある。
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