延元4年・暦応2年(1339年)細川頼春によって築かれたのが始まりとされる。
永禄11年(1568年)三好氏の家臣岩成友通が守っていた小龍寺城を織田信長の軍勢が攻め落とすと、細川藤孝(幽斎)を配して乙訓郡や葛野郡の一部を支配させた。藤孝は長岡氏を称し、元亀2年(1571年)頃より勝龍寺城を改修して居城とした。
天正8年(1580年)細川幽斎・忠興父子は丹後国宮津へ移ると、村井貞勝の家臣猪子兵助や矢部善七郎家定などが城を守っていたが、天正10年(1582年)明智光秀が本能寺で織田信長を倒すと勝龍寺城も明智方が占拠した。本能寺の変を知った羽柴秀吉が中国から戻ってくると、明智光秀の軍勢と山崎城の麓で合戦となり、敗れた光秀は勝龍寺城を出て坂本城へ逃れる途中で討死、明智軍を敗った秀吉は翌日この勝龍寺城に入城した。
寛永10年(1633年)永井直清が二万石を与えられ勝龍寺城跡に陣屋を構え長岡藩となったが、慶安2年(1649年)に摂津国高槻へ三万六千石に加増転封となり廃城となった。
勝龍寺城は長岡京駅の南にあり、現在は勝竜寺城公園として整備されている。
現在公園として整備されているのが本丸で、土塁が巡る長方形の曲輪に北と南に虎口を開いている。現在公園の駐車場となっている西側の部分が沼田丸で、これらを取り囲む外郭があり、その一部が神足神社付近に土塁として残っている。近年この部分の発掘が行われ、勝龍寺城以前の神足城時代に遡る遺構であることが確認された。