築城年代は定かではないが南北朝時代初期に赤松則祐によって築かれたと云われる。
建武5年(1338年)摂津守護職赤松範資は林直弘に鳥取尾城の警固を命じ、南朝方の北畠顕信に備えさせた。文明2年(1470年)には山名是豊が摂津に侵攻してきた大内政弘らに対応するため布陣している。
天正10年(1582年)本能寺の変の後、明智光秀は男山城と山崎城を占拠したが、前日に防衛ラインを勝龍寺城まで下げたため、中国地方から戻ってきた羽柴秀吉は山崎城を攻め取り、麓の合戦で勝利をおさめ明智光秀の野望を打ち砕いた。この戦いが天王山合戦である。
光秀に勝利した秀吉は、山崎城を改修して居城とし、このとき「天主」も設けられた。天正12年(1584年)秀吉は大坂城を居城として移ったため、廃城となった。
山崎城は山崎駅の北に聳える標高270mの天王山山頂に築かれている。桂川・宇治川・木津川が合流する水運の要衝で、この場所にはかつて山城国府が置かれていたこともあった。
主郭は山頂にあり北端に天守台とされる土壇が一段小高く残っている。西下に広く削平地があり、南に虎口がある。主郭の東下には竪土塁で南北を塞いだ曲輪があり、南の竪土塁は現在坂路として使われている。そこから北へ抜けると東西に空堀、その先にもさらにl字の空堀が残されている。
登山ルートはいくつかあるが、宝積寺から登っていくことができる。
最寄り駅(直線距離)