元亀2年(1571年)明智光秀によって築かれた。 元亀2年(1571年)織田信長は明智光秀に比叡山焼き打ちを命じ、その功によって近江国志賀郡五万石を与え坂本城の築城を命じた。 坂本城は琵琶湖に面した低地にあり、天主と小天守を備えた城郭であったと云われる。
天正10年(1582年)光秀は本能寺にて主君織田信長、二条御所では信長の嫡男織田信忠を急襲して自刃に追い込んだ。安土城を占拠して明智秀満に託し、光秀は天王山に羽柴秀吉と戦ったが敗れ、わずかな手勢を引き連れて坂本城へ戻る途中、山城国小栗栖にて落ち武者狩りの百姓に致命傷を受け、自刃して没した。 光秀の死を知った明智秀満は安土城から坂本城に移り、城に火を放ち坂本城は灰となった。
その後、坂本の地は丹羽長秀に与えられ天正11年(1583年)から坂本城の再建が行われたが、天正14年(1586年)に大津城の築城に際して坂本城は廃城となり、部材は大津城に移されたと云われる。
坂本城は早くより開墾され現在も大半が宅地となっており、遺構は琵琶湖の湖底に眠る本丸跡の石垣のみである。
本丸は坂本城址公園の北約100mほどの地点で、「坂本城本丸跡」の石碑が立っている。この本丸跡にたつ施設の湖側に本丸石垣が残っているが、琵琶湖が渇水で水位が下がったときにしか見ることができない。
坂本城は琵琶湖に面した本丸の西側に二の丸・三の丸を配した縄張りであったと考えられる。
明智氏一族の墓は西教寺にあり、ここの山門は坂本城の城門を移築したものだと伝えられている。
大手門(移築 城門)
坂本城址公園に無料駐車場がある。本丸石垣は琵琶湖が渇水で水位が下がった時にしか現れない。
最寄り駅(直線距離)