築城年代は定かではない。 元亀元年(1570年)朝倉義景と浅井長政の連合軍は本願寺と結んで志賀郡へ侵攻し、織田信長の家臣森可成が籠もる宇佐山城を攻め、坂本へ出陣してきた森可成を討ち取った。
摂津にいた織田信長はこの知らせを聞いて京へ急ぎ戻ると、宇佐山城を落とせなかった連合軍は「はちが峯」、「あほ山」、「つぼ笠山」に布陣した。この「つぼ笠山」が壺笠山城である。織田信長と朝倉・浅井連合軍との対峙は膠着状態となり、和議となった。
壺笠山城は坂本と京の間に聳える標高421mの壺笠山山頂に築かれている。 ここは坂本から比叡山を越えて京へ至る白鳥越えの街道が通る要衝である。
壺笠山城は円形の主郭の外側に帯曲輪が一段巡る縄張りである。主郭は北側に虎口があり、一段下の帯曲輪は南側に虎口がある。側面には若干の石積が所々残されている。
穴太駅から200m程北へ県道47号線を走ると西側に墓地がある。この先に西へ入って行く細い道があり、それを奥まで進んでいくと林道の入口がある。林道は一般車両通行止めであるが、その手前に駐車スペースがある(地図)。
林道を登っていくと途中折り返して東へ登る道があり、そこを登ると壺笠山の北鞍部にでる。
最寄り駅(直線距離)