築城年代は定かではない。城主は一色五郎満信(義定)と伝えられる。
義定は建部山城主一色左京大夫義道の子で、天正7年(1579年)義道が中山城で自刃して果てた後、弓木城へ退いて細川氏と戦い和睦した。
一色義定は細川氏と和睦した後は弓木城を居城として二万石を領した。天正8年(1580年)丹後に入部した細川藤孝・忠興父子は勝龍寺城からこの八幡山城に入城、織田信長に新城の築城許可を願い出て許され、宮津城を築いた。 天正10年(1582年)織田信長が本能寺の変で倒れた後、一色義定(義清)は細川忠興によって宮津城下で謀殺された。
八幡山城は宮村駅の東に聳える標高164.5mの山頂に築かれている。丹後国でも最大級の山城で、山頂の主郭から北西側に伸びる三本の尾根に段々と曲輪を連ねている。
山頂の主郭部のみ石垣が使われ、露出している隅部は算木積になっている。虎口は北にあり石段を登った所に2m四方程の空間がある。
主郭から南へ伸びた尾根には切通のような堀切がある。主郭の北端部には近年設けられた天橋立を望む展望台になっている。この展望台の北西下の曲輪の北側に城内で唯一という連続竪堀が残っている。
三本の尾根に展開する曲輪の内、八幡神社側の遺構しか見ていないが、段々に造成された曲輪はどれも切岸が高く、削平も十分に広い曲輪となっている。途中に一箇所石祠が祀られた高土塁があり、曲輪を区切るものか、背後側を箱堀としたものであろうか。