永正12年(1515年)能勢因幡守頼則によって築かれたと云われる。 芥川城はこの三好山に築かれた山城と、殿町に築かれた平城があり、一般的に三好山に築かれた山城を芥川山城と呼ぶ。
永正13年(1516年)正月連歌師紫屋軒宗長が詠んだ「芥川能勢因幡守新城にして祝の心を うちなびき いつこかのこる 春もなし」のこの「新城」が芥川山城であったと考えられている。
管領細川高国の勢力下で能勢頼則が芥川城主となり、新城として芥川山城を築いた。頼則はこの永正13年に没し、家督は能勢源左衛門尉頼明が継いだ。その後、能勢国頼が城主となったいたようであるが、大永4年(1524年)には細川高国と細川晴元との争いの中で、高国方の山崎城が晴元方の柳本賢治に落とされると、安威城・茨木城・福井城・三宅城などの諸城が相次いで晴元方に降伏、能勢氏も芥川山城から退去した。
天文2年(1533年)頃から芥川山城は細川晴元の勢力下となり、管領職となってその勢力を奮うも、天文16年(1547年)以降に配下の三好長慶が離反して芥川山城はその勢力下に置かれた。しかし、芥川山城主とした三好一族の芥川孫十郎が細川晴元に呼応したため、天文22年(1553年)三好長慶は芥川山城を攻め落とし、自らの居城として畿内の拠点の一つとした。
永禄3年(1560年)三好長慶は飯盛山城へ居城を移し、芥川山城には嫡男三好義興を置いたが、永禄6年(1563年)義興はわずか二十二歳で没した。その後は三好三人衆の一人三好長逸が城主となっていたが、永禄11年(1568年)織田信長によって攻められ落城、信長の家臣和田惟政が城主となった。
翌永禄12年巻き返しを図る三好三人衆が京の本圀寺の足利義昭を襲撃すると、和田惟政はいち早く本圀寺に駆けつけてこれを守り、この功によって高槻城が与えられると自身は高槻城へ移り、芥川山城には家臣の高山飛騨守友照を置いた。
元亀2年(1571年)和田惟政は三好三人衆と結んだ池田知正を討つべく出陣し、白井河原で合戦が行われたが、池田家臣の荒木村重に討たれた。家督を継いだ和田惟長はその後、家臣の高山飛騨守・右近に追放され、元亀4年(1573年)高山氏が高槻城を居城とし廃城となった。
芥川山城は芥川に面した標高180mの三好山山頂に築かれている。東を除く三方を摂津峡である芥川が流れる天然の要害である。
芥川山城は三好山の山頂に主郭部、東に出丸・東郭と続き、主郭南に田の丸・南郭、主郭の北西に西郭がある。大手は主郭と出丸の間の谷筋で、南麓の城山集落へと道が繋がっている。
主郭部は、南北に長い曲輪の下方にそれを取り巻くように曲輪が付く。最高所には「城山城」の石碑と三好長慶を祀った祠がある。
西郭は主郭から北西に伸びた尾根にあり、主郭部とは土橋が架かる堀切で区画され、北西端も堀切で遮断する。
南尾根の田の丸は、主郭側に土橋の架かる堀切があり、東側は堀切部分は不明瞭であるが、竪堀となって伸びる堀は二重になっている。南東側から山道が付き、南下の腰曲輪へ通じる。
田の丸の南にあるのが南郭で、主郭側の尾根を大きな堀切で遮断し、この堀に面して高土塁を設けている。土塁の高さは2m程で西側は土塁がl字になっている。広い曲輪で、南東側の大手側の尾根に向かって階段状の削平地が続いている。
主郭の東尾根にあるのが出丸で、この間から谷筋に南へ大手道が付いている。大手道の最高所付近には大きな石の石積が残されている。出丸は広い曲輪に南西側に腰曲輪が付き、南斜面に石積が残る。ここから南へ尾根を降ると大きな堀切があり、そこから南尾根に曲輪が三段続く。
出丸の東にあるのが東郭で、現在の三好山への登山道はこちら側から登るように道標が付いている。出丸側の尾根は大きな堀切に土橋が架かる。最高所には土塁囲みの曲輪があり墓地となっている。その南山腹に竪土塁が一条伸びていて、東尾根に展開する削平地は石積が多く見られるが、これらは後世の畑跡のようでもある。
大手道は南麓の城山集落の奥から道が付いているが、入口付近の石垣群は後世の畑跡であろう。大手道は東の出丸の曲輪群、西の南郭群へ続く道へと分かれる。その間にある尾根は削平地こそないが、二条の堀切らしき地形が残る。
老人福祉施設高槻黄金の里を目指すのがわかりやすい。登山道はこの施設のすぐ奥にあり、その先は城山集落であるが、駐車場がまったくない。
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