築城年代は定かではない。南北朝時代には砦が築かれていたようで、太平記の縄手合戦では「懸下野守、その勢五千余騎飯盛山に打ち上がりて」と記載されている。
本格的な山城として整備されたのは戦国時代で、享禄4年(1531年)河内国守護職畠山氏の家臣木沢長政が居城としていた。長政は主君畠山義堯を裏切って細川晴元に接近し、二度に渡って飯盛山城に籠城して畠山義堯らの攻撃を撃退、享禄5年(1532年)の飯盛山城合戦では木沢長政に加勢した一向一揆によって義堯は自刃に追い込まれた。その後、木沢長政は河内国一帯に勢力を拡げたが、天文11年(1542年)三好長慶らの軍勢と戦って討死した。
木沢氏滅亡後は同じく畠山氏家臣で交野城主の安見美作守直政が入城した。 直政は主君畠山高政を追放して自ら河内国守護代となったが、追放された高政は三好長慶の支援を受けて河内へ戻り、直政は大和国へ逃れた。しかし、高政は三好長慶の河内進出を恐れ、永禄3年(1560年)大和へ落ちていた直政を呼び戻して再び飯盛山城主とした。これに怒った三好長慶は高政の居城である高屋城を取り囲み、後詰めに駆けつけた安見直政の軍勢を撃ち破り高政と直政は再び河内から追放された。この戦いの後、飯盛山城は三好長慶の拠点となった。
三好長慶が没すると、家督を継いだ三好義継や三好三人衆らによって飯盛山城が治められていたが、織田信長の勢力が伸び摂津・河内が平定されると、飯盛山城は北河内を与えられた畠山昭高の所領となった。しかし昭高は家臣の遊佐信教に討たれ、その遊佐信教も三好康長らと結んで織田信長と戦ったが敗れ、天正4年(1576年)織田軍に攻め落とされ廃城となった。
飯盛山城は標高314mの飯盛山山頂に築かれている。 現在は山頂に楠木正行像が建ち、ハイキングコースなども整備されている。麓の四条畷には楠木正行公御墓所(三好陣屋を参照。)がある。
飯盛山城は飯盛山を中心として南北に伸びる尾根に曲輪を配している。 主郭部は山頂の高櫓郭から北へ展望台郭、倉屋敷郭、三本松郭と続き、北の二ノ丸は御体塚郭、史蹟碑郭、南は千畳敷郭、南郭そして東山腹の楠公寺が馬場となっている。
本丸曲輪群は削平された段が連なる曲輪群で、東下の遊歩道沿いに石積が残されている。
二ノ丸曲輪群を見に降りたつもりが、誤って先端から北東側へ伸びる尾根の曲輪群を見てしまった。こちらの曲輪群は曲輪の規模は大きくないが、高い切岸による段が数段続いている。
nhkの無線中継施設などが建つ南曲輪群は本丸との間に堀切がある。この曲輪群は頂部こそ無線中継施設があるが、整備状態も良く城内でもっとも広い曲輪群である。そして南方へ続く道の所に虎口があり、外側には石積、内側にも門跡と思われる石積が残されている。そこから外側へ続く道はやや土橋状になった細い道である。
登山道はいくつかあるようで、四条畷神社などに登山口がある。
車の場合、南の阪奈道路(府道8号線)から楠公寺(妙法寺)に至る林道があり、その途中に「キャンピイだいとう」があり、この有料駐車場が利用可能である。
最寄り駅(直線距離)