築城年代は定かではないが貞享年間(1684年〜1688年)に永井伊賀守直敬によって築かれたと云われる。摂津・河内における一万二千石の所領を管理するための出張陣屋で、渚から佐太へ移し、明治に至るまで存続した。
永井直敬の家系は最終的に美濃国加納藩となった永井家で、直敬の父尚庸が二万石を分与され諸候に列したことに始まる。尚庸は奏者番、若年寄などを務め、寛文10年(1670年)には三万石に加増された。
延宝5年(1677年)二代永井直敬が家督を継ぐと度重なる転封となる。貞享4年(1687年)下野国烏山へ三万石で転封、元禄15年(1702年)には三千石を加増され播磨国赤穂へ三万三千石で転封、宝永3年(1706年)信濃国飯山へ転封、宝永8年(1711年)武蔵国岩槻へ転封となる。
宝暦6年(1756年)永井直陳のとき美濃国加納に転封となり、以後明治まで続いた。
佐太陣屋は来迎寺の南隣にある佐太老人福祉センターに築かれていた。
来迎寺側に面して石垣の段があり、その上に案内板が設置されている。 福祉センターの東側の石垣と合わせて当時の陣屋の石垣で、スロープとなっているのが桝形跡だという。