築城年代は定かではないが岡光広によって築かれた加里屋城がその始まりとされる。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の後、池田輝政が姫路に入部するとその支城として池田長政が赤穂城主となった。
慶長20年(1615年)備前岡山藩主池田忠継が没すると、弟の池田政綱が三万五千石を分与され赤穂藩主となった。寛永8年(1631年)政綱が嗣子なく没し一旦改易となるも、弟輝興が家督を継ぐことを許された。しかしこの輝興も正保2年(1645年)に改易となった。
和暦(西暦) | 事象 |
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慶長20年(1615年) | 池田政綱が三万五千石で入封。 |
寛永8年(1631年) |
池田政綱は嗣子なく没して改易。 播磨国佐用より池田輝興が三万五千石で入封。 |
正保2年(1645年) | 池田輝興が突然の乱心により改易。 常陸国笠間より浅野長直が五万三千五百石で入封。 |
寛文11年(1671年) | 浅野長友のとき、三千五百石を義理兄浅野長賢に分知、新田三千石を浅野長恒に分知して五万石となる。 |
元禄14年(1701年) | 浅野長矩のとき改易。 |
元禄15年(1702年) | 下野国烏山より永井直敬が三万三千石で入封。 |
宝永3年(1706年) | 永井直敬は信濃国飯山に転封。 備中国西江原(西荏原)より森長直が二万五で入封。以降森氏が続き明治に至る。 |
赤穂城は千種川河口に築かれた平城で現在は国指定史跡となり公園整備されている。本丸、二の丸はほぼ整備され、三の丸も比較的保存状態が良く一周することも可能である。
赤穂城は本丸を二の丸が取り囲み、二の丸は仕切り門によって二つに分割されていた。二の丸の南はそのまま海に面し、北の陸に面した所に三の丸があった。
本丸、二の丸一帯は公園となり石垣や水堀が巡りその縄張りを堪能することができる。三の丸も北の大手門と大手隅櫓が復元、曲輪内には大石神社などもある。北西には塩屋門跡があり、そこから南へ石垣が続き、南西に三の丸西南櫓台や干潟門跡なども残されている。
西惣門(移築 城門)
市立歴史資料館の隣に東駐車場、塩屋門跡の隣に西駐車場がありいずれも無料となっている。
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