文化財指定
町指定史跡
遺 構
石垣,郭,堀
城 主
別所氏,服部勘介,池田由之,池田長政,良正院尼公,池田輝興
貞和5年・正平4年(1349年)別所敦範によって築かれたのが始まりである。
別所氏は嘉吉元年(1441年)嘉吉の乱により赤松氏とともに滅亡したが応仁元年(1467年)別所治定が再興して城主となった。
しかし、天正6年(1578年)
上月城の山中鹿之助によって攻められ落城した。
関ヶ原合戦後は播磨国を領した池田輝政の甥にあたる池田由之が城主となり佐用三万石を領した。
完成した城の威容を見た輝政は慶長12年(1607年)三層の天守の破却を命じ由之を退去させ長政を城主としたが期間は3年程であった。
佐用郡は続いて輝政の妻である良正院尼公(徳川家康の女)に化粧領として与えられ4年後には実子である輝興に城主を譲った。
寛永8年(1631年)輝興は
赤穂に転封となり廃城となった。
城は山頂に"へ"の字のような形で石垣で固めた曲輪を配しているが、中央に三層の天守をあげた本丸を配し南に二之丸と馬場、西に三の丸を配している。
一般的には南から尾根伝いに登ることになるが尾根まで登るとすぐに幅2m程の道の両側を石垣で固め石段のある番所跡のような所がある。そこから尾根を進むと石垣で固めた空堀に木橋が掛けられ続いて天王社が祭られた横穴が現れる。
それを越えると三の丸まで何もないが三の丸手前の山上にたどり着いたときには山頂に見える崩れかけた石垣の異様な光景に暫し座り込んで見入っていた。