建久8年(1197年)山田則景によって築かれたと云われる。
山田則景は源頼朝から佐用荘地頭職を得て下向し、後に隠居して築いたのが長谷高山城と云われる。子の山田家範は赤松村に移り、則村(円心)の時に赤松氏を名乗った。長谷高山城主は山田則景、将則、光広と続いて絶えた。
天正5年(1577年)に尼子勝久がこの長谷高山城に籠もったことから、尼ヶ城の別称が生まれたという。
長谷高山城は佐用icの東に聳える標高250mの山に築かれている。
標高260.9mの三角点から西へ降った標高250m付近に城跡があり、西の谷を挟んで北西と南西の尾根に段曲輪を連ねている。主郭はその中心部と思われるが、東へ続く尾根の遮断が甘く、堀切らしき堀切はなく、切岸も低い。長谷高山城が城跡ではなく寺院跡ではないかという話はこの辺りの防御性のなさが挙げられる。西の谷間に面した部分に石積が残っているのが見所である。
南西の尾根先に鐘撞堂と呼ばれる部分があり、この尾根先の背後に二重堀切がある。
登山道は佐用icから国道373号線を南下、中国道を潜ってすぐ先を東へ曲がり県道547号線へ。100mほど先を北へ曲がると高速道路を再び潜る道があり、動物除けの柵がしてある。この柵を明けた所に駐車場があある。(地図)
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