築城年代は定かではない。『赤松家播備作城記』では天正5年(1577年)の上月合戦で安藤信濃守が拠ったと記しており、上月城を攻めた羽柴秀吉方の陣城の一つであったとしている。しかし、畝状竪堀群の存在などから、秀吉側ではなく、毛利側の城とも推測されており、天正6年(1578年)に尼子勝久が籠もる上月城を攻めた毛利方の陣城とする説が有力である。
仁位山城は佐用川が大きく蛇行して流れる地点に張り出した標高233.3mの仁位山に築かれている。かつて西の峰にテレビ塔があったことから舗装された林道があり、近年樹木も伐採されて見学しやすい山城になっている。
主郭ははっきりしないが、三角点のあるIVかIが最高所となる。曲輪の造成は甘く、傾斜している部分が多いが、低い切岸ラインがあり、概ね切岸に沿って武者走り程度の幅で加工され、曲輪IIやIIIは低く段造成されている。
堀切や竪堀といった遺構はほぼ東半分に築かれており、西側は曲輪IVとVの間にある堀切8のみである。
曲輪IIの北側に三重堀切、曲輪IIIの北側に堀切1があるが、この尾根は上月城に籠城している織田方の武将羽柴秀吉が後詰で布陣した高倉山城に繋がる。
この城の最大の特徴が曲輪IIIの側面にびっしりと設けられた畝状竪堀群で、その一部は林道によって破損しているが、おかげで車道からは畝状竪堀群の断面を確認することができる城である。
畝状竪堀群3と4の間にやや幅広く削り残されている部分があるが、これが城路で虎口へ繋がっているが、その途中に張り出し部があり、それを回り込んで入る構造になっている。
畝状竪堀群5は林道の下方に六条の竪堀群があるが、この堀も深く明瞭である。ただ周辺は同様の緩斜面にもかかわらず、この六条だけが独立して存在している。
林道下方にCS立体図で確認できる平坦面VIがある。この部分も低い切岸があり、西側の谷筋と南西の尾根先からの山道が接続している。
南東麓から林道がある。林道入口のフェンス前に新しく駐車場ができているが、そのまま終点まで車で行くこともできる。
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