築城年代は定かではない。城主は赤松氏の家臣、間島氏と太田氏が交代して務めたとされ、嘉吉の乱で赤松氏が滅亡した際には、間島新三郎が城山城で赤松満祐とともに戦死したとされる。
天正6年(1578年)毛利氏が上月城に籠もる尼子勝久を攻めた時、毛利方の間島右馬助祐貴が居たという。
飯の山城は久崎駅の北に聳える標高230m程の山に築かれている。西に佐用川、東に千種川が流れ、四方急峻な天然の要害である。
飯の山城は三角点のある南端の曲輪から北西の先端まで約400m程に渡って曲輪が続いている。
南端の曲輪は南に土橋の架かる堀切があり、東西両側面に竪堀が付く。その北尾根はあまり加工されず自然地形の尾根だが、その先に二重堀切があり、主郭部になっている。
主郭部は周囲に犬走があり、西にスロープの虎口があり。ここから北西の尾根先まで段々と曲輪が連なっている。側面は急峻な地形だが、北東側面に無数の連続竪堀があり、長く伸びている。
南の山腹に大避神社があり、そこから登っていくと南端の曲輪に居たる。神社参道の階段まで車道があり駐車できるがかなり細い道なのでどこかに駐めて歩いて登るのが良いだろう(地図)。
最寄り駅(直線距離)