築城年代は定かではないが那須氏によって築かれた。築城に関しては応永24年(1417年)那須資重が烏山城を築いて稲積城より移った説と、明応年間(1492年〜1501年)に那須資実が築いたとする説がある。
那須資氏の二男資重は沢村城主沢村氏の家督を継いで八代沢村五郎資重と名乗ったが、福原城の本家を継いだ兄那須資之との不和により応永21年(1414年)沢村城を攻められ、資重は烏山に逃れた。 資重は当初興野氏の館に住み、その後稲積城を修築して移り、応永25年(1418年)には烏山城を築いて居城とした。(烏山築城は資重の孫資実との説もある)資重の子資持が那須に復姓して下那須家となり、那須家は本家上那須家と下那須家に分かれて争うようになった。その後、那須家は下那須房資の代に上那須家が滅亡して(亀山城を参照。)下那須家が本流となっている。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐で那須資晴は参陣せず、小田原城落城後にようやく秀吉に参謁したが遅参により所領を没収された。那須氏はその後、資晴の子資景が五千石を賜り福原要害城を居城として再興している。また晴資自身も所領が与えられ文禄元年(1592年)には肥前国名護屋に二百五十の兵を引き連れて参陣している。
那須氏が改易されると天正18年(1590年)尾張国清洲から織田信雄が二万石で転封となるが、二ヶ月程で天正19年(1591年)秋田へ転封となった。
和暦(西暦) | 事象 |
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天正19年(1591年) | 成田氏長が武蔵国忍より二万石で入封 |
慶長5年(1600年) | 関ヶ原合戦で東軍に属して会津の上杉景勝を押さえる役目を果たし一万七千石を加増され、三万七千石となる。 |
元和2年(1616年) | 成田長忠が没すると家督相続争いが起こり一万石に減封となって二男成田氏宗が相続。 |
元和8年(1622年) | 成田氏宗が没して再び家督相続争いとなり改易。 |
元和9年(1623年) | 松下重綱が常陸国小張より二万八百石で入封。 |
寛永4年(1627年) | 松下重綱は陸奥国二本松へ転封。 代わって堀親良が下野国真岡より二万五千石で入封。 |
万治2年(1659年) | 堀親昌の時、烏山城を改修して麓に三の丸を築く。 |
寛文12年(1672年) | 堀親昌は信濃国飯田に転封。 代わって板倉重矩が三河国中島より五万石で入封。 |
延宝9年(1681年) | 板倉重種は武蔵国岩槻へ転封。 代わって那須資弥が那須より二万石で入封。 |
貞享4年(1687年) | 資弥が没し資徳が家督を継ぐが家督相続争いにより改易。資徳は後に福原に千石の旗本として再興。 代わって永井直敬が河内などから三万石で入封。 |
元禄15年(1702年) | 永井直敬は播磨国赤穂に転封。 比企長左衛門が代官となる。 |
元禄16年(1703年) | 稲垣重富が上総国大多喜より二万五千石で入封。 |
宝永元年(1704年) | 稲垣重富は三万石に加増。 |
享保10年(1725年) | 稲垣昭賢は志摩国鳥羽に転封。 代わって大久保常春が近江より二万石で入封。 |
享保13年(1728年) | 大久保常春が近江より二万石で入封。 以後、大久保氏が八代続いて明治に至る。 |
烏山城は那珂川西岸の八高山頂に築かれており、現在は遊歩道が整備されている。
主郭部は山頂にあって南北二郭、北が古本丸、南が近世本丸(古二の丸)で空堀によって区画され、周囲には深い空堀が巡っている。山上は虎口である正門脇と吹貫門の周辺に石垣があり、堀氏時代に拡張された麓の三の丸にも石垣がある。
以前訪れたときにはヤブ深く、全てを見学するのは困難であったが、近年下草が刈られ、普段山城を歩いている方なら全域を問題なく見学できるレベルまで整備されおり、非常にありがたい。
搦手門(移築 城門)
大手門の礎石があった資料館は閉鎖されていた。烏山市役所の駐車場が利用できるが、三の丸の上口である亀寿山神社にも駐車可能である。
上り口は三の丸石垣のある亀寿山神社が一般的だが、市役所から筑紫山を経て登るルート、さらに北西の林道は大野曲輪の入口に隣接している。
最寄り駅(直線距離)