文治3年(1187年)沢村満隆によって築かれたと云われる。 沢村氏は那須資隆の七男満隆(那須与一宗隆の兄)が沢村に分知され、沢村七郎道隆を名乗ったことに始まる。
那須資氏の二男資重は沢村氏の家督を継いで八代沢村五郎資重と名乗ったが、本家を継いだ兄那須資之との不和により応永21年(1414年)沢村城を攻められ、資重は烏山に逃れた。 資重は当初興野氏の館に住み、その後稲積城を修築して移り、応永25年(1418年)には烏山城を築いて居城とした。(烏山城築城は資重の孫資実との説もある)資重の子資持が那須に復姓して下那須家となり、那須家は本家上那須家と下那須家に分かれて争うようになった。その後、那須家は下那須房資の代に上那須家が滅亡して(亀山城を参照。)下那須家が本流となっている。
沢村城は箒川の南岸にある東西に伸びた丘陵に築かれている。現在は山林で特に案内板も設置されていないようであるが、遺構の状態は良好で東西300m程と中規模であるが見応えのある城である。
沢村城は北から、北三の丸・北二の丸・本丸・二の丸・三の丸・南中丸と続く連郭式の山城で北は箒川に面して急峻となっている。
本丸は温泉神社のちょうど北背後にあたり、周囲に空堀が巡り、北側に櫓台がある。虎口は南側にあって空堀に土橋が架かっている。南の空堀は本丸を巡る堀とその下にも一条の横堀があり二重堀になっている。本丸の堀はそのまま東へも伸び二の丸を巡っている。
県道52号線沿いの沢地区にある観音寺または温泉神社を目指す。温泉神社の境内から山に入る道がある。
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