築城年代は定かではないが福原氏によって築かれたと云われる。上那須家の居城福原城の詰城と考えられているが定かではない。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原討伐で烏山城主那須資晴は参陣せずに改易となったが、資晴の子那須資景に五千石を与えられ那須家は再興となった。このとき、福原要害城を築城し(実際は改修とも)居城とした。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で那須氏は徳川家康に属し、その後の父資晴の遺領を合わせて一万四千石の大名となった。 寛永元年(1624年)資景は嫡子資重に家督を譲って隠居したが、寛永19年(1642年)資重が嫡子なく没し所領が没収され那須藩は消滅。存命であった資景に五千石が与えられ辛うじて旗本として存続した。承応元年(1652年)資景は将軍徳川家綱の生母、於良久の方(おらく)の弟資弥(資祇)を養子に迎える。この那須資弥の代に二万石まで加増を賜り、天和元年(1681年)には烏山城に転封となった。しかし烏山城に移った那須家も長くは続かず、資弥の跡を相続した資徳の代にお家騒動の為に改易となり、その後、那須資徳は千石の旗本として福原陣屋に戻っている。
福原要害城は箒川の南岸にあり、福原城の南東の山に築かれている。
主郭と見られる曲輪は山頂にあって北側を除く三方を高土塁が巡り、その周りには空堀が巡らされている。曲輪の内部は薮化しいるが、周囲は比較的歩きやすい。 主郭の北西側にも低土塁の曲輪があり、ここも空堀が巡る。空堀は南の尾根で複雑に分かれ竪堀になっている。
福原集落から県道285号線を東に進んでいくと、道が左にカーブしながら下り坂になる。その辺りに「不審者に注意」と書かれた看板があり、その辺りから山に入る道がある。