元禄14年(1701年)那須資徳によって築かれた。 那須資徳は津軽藩主津軽信政の三男で烏山城主那須資弥の養子であった。
貞享4年(1687年)那須資弥が没すると那須資徳が家督を継いだが、資弥には実子福原資寛がおり、福原資寛と生母が資徳の家督相続が不当だと幕府に訴えたことから那須氏は改易となった。
那須資弥は実父津軽信政の働きかけによって福原に千石を与えられ、旗本として再興し福原陣屋を築いた。以後、旗本那須氏の陣屋として明治に至る。
福原陣屋の位置は定かではない。「日本城郭体系」によれば、箒川南岸に位置し、東西に連なる低丘陵の北側の斜面上に構築されており、現在は山林で土塁が巡る東西40m、南北40mの曲輪が現存する。とある。しかし、「栃木県の中世城館跡」によれば、箒川南岸の福原集落の上の段にあり、現況畑地で形跡は殆ど無い。とある。
那須与一の墓がある玄性寺の近くであったと思われ、近くで畑仕事をしていた方に所在を伺ったのだが、残念ながらご存じではなかった。