天治2年(1125年)須藤権守貞信によって築かれたと云われる。 須藤権守貞信は那須氏の祖とされる人物であるが、その出自については山内首藤氏や那須国造後裔など諸説あって定かではない。
那須資高の十一男は、かの有名な那須与一宗隆で、元暦2年(1185年)源平合戦では源義経に従い、屋島合戦で舟の先端の竿に付けられた日の丸の扇を馬上より弓で見事に射落としその名を轟かせた。その後、源頼朝より那須家の惣領を継ぐよう命じられている。この時、与一は兄弟に所領を分知し那須十氏となった。
・長男太郎光隆は森田の地を与えられ森田城主森田氏を称す。
・二男次郎乗隆は佐久山の地を与えられ、佐久山城主作山氏を称す。
・三男三郎朝隆は芋渕の地を与えられ芋渕氏、その後裔は梁瀬に移り梁瀬氏を称す。
・四男久隆
・五男五郎之隆は福原の地を与えられ福原城主福原氏を称すが、与一宗隆の跡を継いで宗家となり、那須氏が上下に分かれた時は上那須氏となった。
・六男六郎真隆は滝田の地を与えられ滝田城主滝田氏を称す。
・七男七郎満隆は沢村の地を与えられ沢村城主沢村氏と称す。那須家が上下に分かれた時には下那須家となり烏山城を居城とした。
・八男八郎義隆は堅田の地を与えられ山田城主堅田氏と称す。その後、片平へ移り片平城主片平氏を名乗った。
・九男九郎幹隆は稗田の地を与えられ稗田氏を称す。
・十男十郎為隆は千本の地を与えられ千本城主戸福寺氏を称す。後に千本氏を名乗る。
神田城は古代那須の中心となる地域にあり、近くには那須官衙跡もある。
神田城の規模は南北117m、東西66m程で南北に長い長方形の居館である。周囲は基底部10m、上部2m、高さ5m程の土塁が巡っている。一部西側の土塁が削られて宅地となり、曲輪内は水田となっているが遺構は良好に残っている。
国道293号線と国道294号線の旭町交差点から国道293号線沿いに西へ進んでいくと、南側に神田城跡の公園と駐車場がある。