築城年代は定かではないが正応・永仁年間(1288年〜1299年)頃に武茂泰宗によって築かれたと云われる。武茂氏は宇都宮城主宇都宮景綱の三男泰宗が武茂郷を領して武茂氏を称したことに始まる。
応永14年(1407年)武茂綱家は子の持綱を宗家宇都宮満綱の養子とし、宗家の家督を継がせた。応永30年(1423年)宇都宮持綱は、持綱が宗家を継いだことに不満を持っていた川崎城主塩谷教綱によって梨木坂で討たれた。持綱の遺児等綱はわずか四歳で、家臣に添われて佐竹を頼って逃れたが、永享10年(1438年)祖父武茂綱家が後見人となって等綱は宇都宮の家督を継いでいる。
持綱が宇都宮宗家の家督を継いだため武茂氏は断絶していたが、寛正3年(1463年)持綱の曾孫にあたる芳賀兵衛成高の子正綱が、武茂太郎を称して武茂氏を再興した。しかしこの正綱も宇都宮明綱(等綱の子)が嫡子なく没した為に、宇都宮氏の家督を継ぎ武茂氏は再び断絶した。
永正3年(1506年)正綱の子兼綱が武茂氏を再興した。この兼綱は武茂右衛門五郎と称して武茂郷一万石を領した。
その後、武茂氏は佐竹氏と那須氏の対抗の狭間にたち、永禄3年(1560年)頃に佐竹氏に属した。文禄4年(1595年)武茂豊綱・堅綱は久慈郡大賀村に八百石を与えられて所替えとなり、代わって佐竹家臣太田五郎左衛門資景が武茂城主となった。 関ヶ原合戦後、佐竹氏は秋田へ転封となり、武茂堅綱もそれに従って秋田へ移った。
武茂城は武茂川の北岸、北から南へ張り出した尾根に築かれている。 一般的に武茂城は武茂氏の菩提寺である乾徳寺の西の尾根に築かれている城を指しているが、東側の尾根にも城郭遺構が残っている。
西城は北端の天守櫓と書かれた櫓台に社が祀られ、この段が本丸、南の広い段が二の丸と呼ばれている。南側に土橋の架かる空堀を隔てて東西二段の三の丸、その南下の山腹に静神社が鎮座する曲輪がある。本丸の北背後は堀切で、ここから東側の山腹に横堀が伸びている。
東城は西城程技巧的な縄張りではなく、北尾根を二条の堀によって断ち切り南西に伸びた尾根に削平地を設けている。背後の堀切は内側は城台の裾を巻くように設けられた箱堀で、外側は一般的な薬研堀になっている。
東西両城郭の間にある乾徳寺は武茂氏の菩提寺で、境内の奥には武茂氏の墓碑があり、山門は武茂城の移築と伝えられる。また境内入り口には武茂氏の祖、武茂泰宗の像が建っている。
馬頭小学校と広重美術館の間にある道の奥に静神社の参道入口があり、駐車場と山へ遊歩道がある。東尾根の城址には道が付いていない。
武茂城を訪ねる前に馬頭郷土資料館を訪ねると良いでしょう。ここには武茂城の模型(東西両城郭を含む)があり、「武茂一族の興亡」という冊子が売っています。この中に武茂城の縄張図も掲載されています。