天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の後、古河公方足利義氏の娘氏姫と小弓公方足利義明の孫足利国朝が婚姻して断絶していた古河公方家を再興し、喜連川に四百貫が与えられた。
文禄2年(1593年)国朝は文禄の役で肥前国名護屋に赴く途中、安芸にて没し、家督は弟頼氏が氏姫と再婚して継いだ。 この頼氏の時代に喜連川氏を称するようになった。
関ヶ原合戦後、喜連川頼氏は徳川家康に戦勝の使節を送って祝賀した。これによって千石の加増と十万石の格式が与えられた。
喜連川陣屋は現在のさくら市役所喜連川庁舎の地に築かれていた。 遺構は特に残っておらず、入口は巨大な大手櫓門風の建物になっている。
市内の個人宅に城門が移築現存しており、足利氏の家紋や化粧が残されている。この門は水害被害防止のため嵩上げされている。所有者の方と話込んでいたら門の全体写真を撮るのを忘れていた。
陣屋裏門(移築 城門)