築城年代は定かではないが福原四郎久隆によって築かれたと云われる。 那須資隆の四男四郎久隆は片府田を分知され福原四郎久隆を称した。久隆には嫡子なく弟五郎之隆の子を養子に迎え跡を継いでいる。五郎之隆は福原を分知され同じく福原五郎之隆を称し福原城を居城としたという。
本家那須の家督を継いでいた那須与一宗隆が没すると、福原五郎之隆が那須家の家督を継ぎ那須資之を名乗り、以後那須本家は福原城を居城とした。
那須資氏の嫡子那須資之と沢村城主沢村氏の家督を継いで沢村五郎資重と名乗った二男資重は不和により、資之は応永21年(1414年)沢村城を攻め沢村資重は烏山に逃れた。その後、烏山に逃れた沢村資重の子資持の時に那須氏に復姓し、那須家は福原城の上那須家(本家)と烏山城の下那須家に分かれ争うこととなる。
永正11年(1514年)上那須家は養子となっていた結城義永の二男資永と那須資親の実子亀山城主那須資久(山田次郎資久とも)との対立による悲劇により断絶、以後那須家は烏山城の下那須家が統一していく。詳細は亀山城を参照。
福原城は福原北岡館とも呼ばれ福原要害城を詰城とする居館で、箒川南岸の段丘の平地に築かれていた。
県道167号線の東側に「堀の内」・「城ノ内」と呼ばれる地があり、この辺りに築かれていたが現在は宅地や田畑となって遺構はほとんど残されていない。東西500m、南北350mの規模で北は箒川に面して急峻で東西には深い沢が入り、北を除く三方に土塁と水堀が巡らされていたという。